えとせとら

□狐が眠る藍の海
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鋼鐵三國志
陸遜伯言*呂蒙子明


†狐が眠る藍の海†





私は時々。
彼を足手まといだと思う事があります。

いえ、武官としての働きを全うしていないと言う訳ではなく。

彼は優れた文武の才を持ちながら、心は雛鳥の様に脆弱で臆病なのです。







ここ数日、日照りが続き作物が枯れて仕舞う事が危惧されていた。
貯水槽の中も絶え間なく嵩が減少していく一方。

そんな時に、彼は遠く離れた敵軍近く荊州の地に花を育てていると言う。
各自に与えられた貴重な水瓶の中身をその花達に分け与えているのだと。

信じられなかった。嘘だと思った。

いくら草花を愛でているとは言え、それは自殺行為に近い。

しかし、軍義の前後に彼と挨拶を交わす時に香る甘い匂いは間違いなく花のそれ
だった。
他の官吏に適当に挨拶をしそそくさと帰路につく背中を見送りながら、今日も彼
は人知れずその花の棲み処に通うのだろうと何とは無しに思っていた。

「香の匂いがした」

いつの間にか横に立っていた凌統がぽつりと言う。

「あれは女の匂いだ」

不満げに言う凌統に苦笑した。
女は女でも、あれは口も利かず笑わない、ただただ水を吸い甘い香りを放つだけ
なのだから。

それから暫く彼は軍義に顏を出す日が減り、代わりにその微睡むような香りが城
内で彼の存在を忘れぬようにと居座り続けた。

孫呉を担う者が軍義を放棄し鍛練を怠るなど、呆れて物も言えない。

彼は一体何を考えているのだろうか…







更に日が経って、彼が以前程出歩かなくなった。それでも花の香りは消えない処
か脳を麻痺させる程強く香って、少なからず彼もその影響を受けている様だった


「あれは女の匂いだ」

いつか凌統が溢した言葉。
それは「女と共に居た」のでは無く「女そのもの」を指していたのだと漸く気付
いた。

一方、日照りは連日続いており極度の干魃に他の国ですら戦う事を忘れかけてい
た。定期的に行われる軍義も、最近では専ら干魃対策や水の補給についての話ば
かり。
この状態では仕方がないかと諦めていた。

今日はいよいよ、底を尽きつつある貯水槽の中の水を如何にして維持し、そして
増やすか。そんな話をする筈だった。

「孫権殿」

珍しく彼が口を開いた。
久しぶりに聞いた声は、酷く落ち着いてどこか色を含んでいる。

「どうしました、呂蒙」

訊かれ、ゆっくりと立ち上がり孫権様に向き直る。
ふわりと周囲に花の香りが舞った。

「大地に愛された孫呉ですら此の様な事態です。敵はより深刻な問題を抱えてい
る様子…ならば今こそ血を見ずして敵地を制圧する絶好の機会ではないでしょう
か」

まさか彼の口からそんな事を聞くとは誰も思わなかった故、狭くはない室内にざ
わめきが起こる。

「我らとて万全の備えではない。努々兵を無駄死にさせると言うのか」
「いえ。畏れながら、私の策を聞いて頂けないでしょうか」
「策?」
「私が育てた花を使うのです」

極々真面目に話す彼に、ちらほらと嘲笑が送られた。

花?

そんなもの何に使うと言うのだろう…

「此の花の香りには催眠効果があるのです。例えば…陸遜」
「え、はい」
「僕を殴ってみて?」
「は!?」

いきなり何を言い出すかと思えば…とうとう頭がどうかしてしまったのかと疑っ
た。
確かに、疑っていた。

「良いから」

彼の柔らかい笑顔に見詰められる。
深い藍色の瞳に吸い込まれそうだと思った刹那。
花の香りが強くなった。

「本気で殴りなさい」

静かで強い口調に促されて自然と体が動いた。
言われるままに彼に向かって拳を突き出す。







ぱしん。







「う…」







思いきり突き出された拳は
彼の掌に受け止められていた。

「嘘…だ」
「嘘ではないよ。君は本気で殴った筈なのに、思う様に力が入らない…そもそも
殴る気なんて無かった。だよね?」

信じられなかった。
こんなにも簡単に思考を支配されてしまうなんて。
足手まといだと思っていた彼に操られたなんて。

驚愕を隠せない周囲を余所にすっと懐から一輪の可憐な花を取り出し、続ける。
何処か見覚えのある、白い花。

「此の花は既に敵国の風上に花を咲かせ、彼等も花の香りで戦力を失っているで
しょうね」

不敵に笑う彼を初めて恐ろしいと感じた。
普段から漂っている弱々しく、ともすれば民兵にすら薙ぎ倒されそうな空気は幻
だと思える程だ。

その力を以てしても彼は戦を好まなかった。
誰もが傷付かず悲しまず、穏健に事を進めようとする所は彼のまま。

ふと過ったのは、諸手に水を掬い一面に咲く花に潤いを施す姿。
花に戯れて笑う彼は妖艶で美しい。

そう感じたのは、花の所為か否か。






軍義を終えて部屋を出ると、入口には彼が居た。
申し訳なさそうにおずおずと此方を見ている。

「り…陸遜……」
「何ですか?」
「ご、ごめんなさい…!!!あんな事させちゃって…」

どうやら先程の事を気にしているらしい。
既に瞳からは大粒の涙が零れ落ちそうだ。

「別に構いませんよ、軍義は私も望んでいた方向へ向かいましたし」
「で、も…」
「じゃあ、教えて下さい」
「え?」

固く握り締めていた所為で先程より幾分萎れている花を彼の手ごと掴んで鼻先に
向ける。

「何故、私だったのですか?」

そう言うと、彼は俯いて目を逸らしてしまった。
上手く紡ぐ言葉が見つからないのか唇が動くだけで音がついて来ない。
本当に先刻の軍義で進軍を提案したのは彼だったのか疑わしく見える。

「……たから」
「?」
「知ってたから…」
「知ってた?」

宙をさ迷っていた視線が此方を見る。

「僕が花を育ててる事…ずっと僕の事心配してくれてたって、凌統が」

意外と仲が良いらしい凌統が少々大袈裟に伝えたらしい。実際は何をしているの
か少しだけ気にしていた程度だ。

「それに、陸遜なら…」



優しいから僕のした事を怒ったりしないと思ったんだ



そうだな。
現に怒っていないし、そう思ってくれている事が嬉しかった。

「だから…数日前から陸遜の部屋の花をこの花にすり替えたんだ」
「…」
「お、怒りますか…?」

成程、だから私だったのですか。
城内に満ちていたと思っていた香りは、実は私自身の周囲だけに漂っていたのだ

そう考えると最近は彼の近くにいる機会が多かったし、彼の策はもう随分と前か
ら動いていた。

それを知っていたのに、気付けなかったのだ。

「ふ、あはは!!怒りませんよ、貴方は素晴らしい策士ですね」
「陸遜…」
「気に入りましたよ、貴方の事」






私は時々。
彼を足手まといだと思う事があります。

いえ、武官としての働きを全うしていないと言う訳ではなく。

彼は優れた文武の才を持ち国を動かす者ですら容易に虜にして仕舞う

禁術を犯す妖狐を飼っているのです。



Fin

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