長編小説(予定)
□取り敢えず無題(上)
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目を開くことなく彼はそう呟いた。頬を涙に濡らしながら。今彼が見ている映像は、彼を独り残し誰か傍を離れ様としているのだろうか…。きっと彼は今嬉しくはないのだろう。どうしようもなく嫌だった。彼の体に入り切らないほどの感情をその体から引きずり出してあげたい衝動に駆られた。
「私がずっと貴方の傍にいます。独りにはしませんから…」
私は包み込んだままの彼の手を少しだけ力を込めて握り直し、耳元にそっと囁いた。夢の中の彼に届く様に。彼の不安がちょっとでも霞む様に…。私の言葉が届いたのか、暫くして彼は重そうに瞼を押し上げた。
「……ユ…キ?」
「はい。傍におります」
彼は気だる気に濡れた頬に手を当て、小さく溜息をついた。
「ごめん。心配させたね…」
そう言って彼は袖口で目許を拭い、手の甲を押し当てた。私の手の中で彼の手が僅かに身動ぐ。それでも私はその手を放せなかった。まだそうしている事が、彼にとって必要な気がした。
「…どれぐらい寝てた?」
彼は目の上から手を下ろし、まだ意識が混濁しているのか、私に虚ろな眼差しを向けて聞いた。彼はまた活動を開始するつもりなのだろうか…。まだ彼には休息が必要だと思った。
「まだ…ほんの僅かです。もう少しお休みになっていて下さい」
私は彼の目の上に軽く手を添えた。今はまだ無理矢理にでも、もう少し眠って欲しかった。彼の体はこの数時間の睡眠で、少しは癒されたかもしれない。しかし精神面は、きっとまだ癒されてはいないだろう。
「夜が明けたら起こします。それまではどうか眠って下さい。貴方には休息が必要です。私は…ずっと貴方のお傍におりますから」
添えた私の手の下で彼の瞼が小さく震えた。握った手も。
「君も休んで…」
「私には必要ありません。貴方がきちんと眠るか傍で監視致します。」
ややあって彼はまた少し深く息を吐き出し、「好きにしていいよ」と言ったきり動かなくなった。私はしっかり礼を述べ、彼の目の上から手を滑らせて頭を撫でる。何度か繰り返していると、彼の呼吸はまた深く穏やかなものへと変わっていった。今度こそは彼の眠りが静かなものである様にと願った。
気が付くとカーテンの隙間が微かに明るんでいた。もうすぐ夜が明ける。あれから彼は涙を流す事もなく、安定した眠りの中にいた。