長編小説(予定)

□取り敢えず無題(上)
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私は頬から恐る恐る引かれる彼の手を咄嗟に握り締めた。急に手首を掴まれた彼は身を強張らせ、そろそろと私を見上げる。怯えさせるつもりなんてなかったのに、あまりに多くの疑問が彼への配慮を疎かにさせた。

「叩いたりして、ごめん…」

彼は俯き謝罪の言葉を落とす。謝るべきは彼ではない。取り乱し、彼に恐怖を感じさせた私こそが謝罪しなければならない筈だ。それなのに私は喉が詰まってしまったかの様に言葉を発することが出来なかった。

ベッドに腰掛けたまま腕を掴まれ身動きが取れない彼は、何とか私の手から逃れようともがいている。この手を離すべきだと解っているのに、なかなか手を放すことが出来なかった。

「一つずつ答えるから…全部ちゃんと答えるから…だから……」

未だ手を放そうとせず、黙ったままの私に彼は瞳を潤ませ、そう言って身動いだ。掴んだままの彼の手首が微かに震えている。一時の記憶が途切れ混乱しているにしても、自分の行動はおかしい。彼の望まざる事はしたくない。なのに何故は私は彼の手を放さないのだろうか…。

彼のこんな表情は見たくない。私が声を荒げ、その上手を拘束したりするから彼は怯えている。でも今この手を離したら彼が自分の傍から居なくなってしまいそうで恐かった。沢山の思考が私の頭の中を埋め尽す。

(怖…い……?)

ロボットは恐怖など感じない。そんなものを感じては人を守れないから…。何よりも大事な私の役割が果たせなくなってしまう。怖い筈などない。必死で自分の思考を否定した。ある筈がない。ある筈のないことばかりが自分の身に起きている。これが壊れているのでなければ、一体何を以って壊れていると定義する事ができるというのか。

正常な判断力を失い、暴走するロボット程恐ろしい物は無いだろう。彼の怯えた表情も自分の所為なのだ。私自身も自分の行動が恐ろしくて、凄く苦しかった。私は彼の傍に居てはいけない。これ以上傍に居たら彼を傷付けてしまうだろう。離れたくなど無いけれど、今彼の安全は何よりも優先されるべきだ。私は全ての思考を以って何とか彼の手を離し、急いでベッドを降りた。

「何処…行くの?」

戸惑いの滲む彼の問いにも振り向かなかった。兎に角彼の傍を離れたい一心で私は扉を目指し歩き続ける。

「ユキ!」

ドアノブに手が届くという所で彼の声が直ぐ傍で聞こえた。そして服の背に引っ張られる感覚が生じ、彼に服を掴まれたのだと直ぐに理解した。


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