長編小説(予定)

□取り敢えず無題(上)
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5.回復

あれから彼は昏々とベッドに沈み込んだまま身動き一つしない。よっぽど疲れが溜まっていたのだろう。何度か冷たくなったタオルを交換すると、彼の目元の強張りも薄れた様だった。眠る彼を見守り続けて数時間。突然彼の呼吸のリズムが変わった。今まで深くゆっくりとした呼吸をしていたのに、ほんの少し浅く早くなった気がする。

何か夢を見ているのだろうか、瞼が微かに震えている。人の眠りには波があって、浅い眠りの時に夢を見ることがあるという。彼の眉間には薄く皺が寄っている。何か不快な夢を見ているのではないだろうか…。なんとかしてあげたいが、私には人の夢を変えてあげられる機能はない。

私は彼の頭を撫でた。ゆっくり、優しく。起こさない様に細心の注意を払いながら何度か髪に手を滑らす。こんなことで彼の見ている夢を変えられない事は認識しているつもりだが、何かせずにはいられなかった。

「んっ…」

彼は小さく唸って布団を巻きこみ寝返りを打った。顔にかかった前髪をそっと払うと、彼の目はぎゅっと硬く閉じられていた。私は先程よりもずっと深く皺の刻まれた彼の眉間に触れる。また暖めたタオルが必要だろうか…。

何度か彼の額に指を這わせていると、微かに目許の力が緩んだ。私がほっとしたのも刹那、彼の目尻に少量の水分が湧いた。これはきっと涙。人は悲しい時、辛い時、嬉しい時、恐怖した時に涙を流す。その身に余る感情は涙として体外へ排泄される。

――彼は悲しいのだろうか。
――彼は辛いのだろうか。
――彼は嬉しいのだろうか。
――彼は恐怖に震えているのだろうか。

私には解らない。彼が見ている夢はどの様な映像なのだろう。私はどうしたらいいのだろう。眠っている彼にどうしてあげたらいいのだろう。なにも出来ないことが凄く嫌だった。彼は泣いている。夢を見ながら。私は彼の目尻に溜まりゆく水分を指で拭った。拭っても拭っても涌き出る彼の涙。私のいつもの場所がぐっと、目まぐるしい程の速度で圧迫されてゆく。苦しい。こんなに傍にいるのに何もしてあげる事が出来ない。私は布団から覗く彼の手を取り、両手で包み込んだ。

「ぼくをおいていかないで…ひとりに…しないで……」


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