長編小説(予定)

□取り敢えず無題(上)
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8.足枷

日も天辺から傾き、部屋が淡く翳り始めた午後。彼が眠りについて4時間と少し。昏々と眠っている彼の隣で、私はただ静かに彼を見て過ごした。時々小さく身動ぐ衣擦れの音の他は、穏やかな彼の寝息だけが部屋を満たしている。少し前に軽食の準備を済ませて、再びベッドへ戻ったのが10分程前の事だ。

不意に彼の呼吸のリズムが崩れたかと思うと、ゆっくりと彼が何度か瞬き、ぼんやりと隣の私を見上げた。視界がはっきりしないのか、のろのろと手の甲で目を擦っている。瞳に掛かかっている彼の前髪をそっと払うと、彼と目が合った。そっと微笑み、目覚めの挨拶をしようと口を開きかけたその時だった。彼ははっとして突然身を起こした。

急に身を起こしては、急激な血圧の変化が起きて体に悪いと言うのに…。私は身を起こした彼の背を撫ぜた。案の定彼は急な負荷に頬を紅潮させている。こんな事ばかりしていては、彼の命が幾つあったて足りそうにない。

「お目覚めなのは結構ですが、もう少しゆっくり起き上がらないと体に障ります…。大丈夫ですか?」

問いへの反応は無い。また何か悪い夢でも見たのではないかと、私は項垂れる彼を後ろから抱き締めた。どんなに近くにいても、人の見る夢までは変えられない。飛び起きる程に酷い夢を見ていたのかと思うと、急に切なくなった。

「何か…、辛い夢でもご覧になられましたか?」

少しでも落ち着かせたくて、出来る限り穏やかに聞こえる様、気を配りながら、私はそっと訊ねた。彼は首を振って答えたが、未だに項垂れたまま顔を上げる気配が感じられなかった。話せない程に酷い夢だったのかと思い、私は彼を包む腕に今少し力を込めた。

「ユキ…」

「お辛いのなら、どうか無理はなさらないで下さい。」

私を呼ぶ彼の声に何処か頼りなさを感じ、居た堪れなかった。どうしてあげたら彼が楽になれるのか見当もつかない。自分の経験地の無さがもどかしくて仕方なかった。少しでも彼の苦痛を吸い取れはしないだろうかと、私は彼に接する部分を増やしたくて肩に顔を埋めた。

「どうして差し上げたら良いのか、分かりません…」

「ごめんね…。ユキは私を怒っていいんだよ?」

彼の言葉を理解できず、私は返答する事が出来なかった。そんな私の頭をそっと撫ぜて、彼は何度も謝罪の言葉を零した。

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