事件
1.
始まりは悪夢であった。
朝食時にテレビを点けると、いきなりニュースキャスターが極端に声のトーンを落とした。
都内のアパートの一室で、両手両足を切断された変死体が発見されたのだと。
最近は味の悪いニュースが多いな、と溜息をついたのも束の間、近藤は画面に釘つけになる。

容疑者が確定していた。しかも、既に屍であった。死因は自殺。
この日本国でどうやって手に入れたのかは知らないが、銃で自分の頭を撃ちぬいたという。
犯人は都内の○○高校の教師。ちょっと待て、自分の高校じゃないか、と近藤は前のめりになる。

名前は、坂田銀八28歳。
聞き覚えのある、なんてレベルではない身近な響きであり、あまりに自然に口に出来る名前。
嘘だろ、と言いたくなる。彼は近藤の担任だった。
親しい人間がひとり、一瞬にして転落し、消滅する瞬間こそ、まさに悪夢であった。

2.
この日学校は、その悪夢を共有する場所となった。
担任の代わりに教壇に立ち、早朝のニュースの内容をそのまま告げる教頭に、夢なら覚めてくれ、と皆が縋る目で訴えかける。
だがそれも、見事にへし折られ、絶望しきった集団を前にして、教頭は頭を抱えるばかりだ。
坂田銀八という一教師の存在が、いかにこのクラスにとって大きいものかを思い知らされたようだ。

少なくとも近藤はこの担任を気に入っていた。
堅物や教育熱心とは程遠い、いつも心ここにあらずな感じで、掴みどころのない、自由奔放な男だった。
ただし、自分のことを『ゴリくん』と呼ぶのはやめてほしかったが。
校内で咥え煙草は常時のこと。しかし近藤にとっては、彼がチロルチョコを大量に常備していることのほうが印象に強かった。
授業中うたた寝している生徒に、これ食って目覚ませ、なんてよく言ってたっけ。
教師というものに反抗的な年頃で、校則や家庭に縛られている子どもたちにとっては、憧れに近い存在だったのかもしれない。
それが、なぜ。
殺人、自殺。殺人、自殺…。

あの無害そうな腑抜け面が常日頃から、猟奇的な人殺しを想像していたのだとしたら、これほどぞっとすることはない。
両手両足を切断するなど、正気の沙汰とは思えない。
それも、恨みなどといった感情とは無縁の殺人だという。衝動的なものだろうか。はたまた計画的か。
自殺をしたことを考えると、前者の可能性大だろうか。

単に実は“そういう男”だったから、とすれば、狂人による猟奇的殺人、として、事件は片付いてしまう。
だが近藤は事件の真相は別のところにあるのではないか、と考えていた。
彼の狂気じみた殺人には何か理由がある、というのは、都合良く考えすぎなのかもしれないが。

土方もまた然りだった。彼は近藤の親友であり、幼馴染でもある。
坂田銀八とはよく口喧嘩をしていたが、それは土方が年上の兄貴分に懐いている証拠だった。
仲直りの際には、その証として必ずチロルチョコをくれるらしい。本人はいらない、と毎度言い張るのだが。
そんな思い出も、ただの残りカスと化してしまった。
「先生があんなことするとは思えねえ」
一方では受け入れざるを得ない現実を嘆いており、もう一方では何とかしてその現実を覆そうと抗っている。

殺人、自殺、殺人、自殺…。
テレビの中だけの存在だったものが、今こんなにも身近にあるとは。
どんなに恐ろしい事件さえ、友人と会話を盛り上げるための『話のネタ』として使っていた今までの自分が、
あまりに愚かで、恐怖すら覚えた。

3.
坂田容疑者と5年ほど同居していた恋人はいっさいノーコメント、という記事が目に入る。
同居については、初めて聞く話ではない。
その恋人が美人で知的だという情報まで、近藤は知っている。土方が実際、二人の帰り際を見たと言う。
「あの野郎、羨ましいぜ」恋人のルックスは土方の好みらしかった。

どうしたってこの恋人は、まず共犯者の可能性を疑われるだろう。近藤も新聞記事を見た時、そんな疑惑が頭を過ぎった。
共犯者というよりも、坂田銀八に殺人を促した張本人ではないか。それもまた、坂田銀八の罪を少しでも軽くしたい、という思いからの、都合の良い解釈だ。
だが事件後の、彼の反応や行動を見ているとどうも引っかかりがある。
坂田銀八に関しては全く口を開かず、恋人が人を殺したことに関して、涙や憤りを見せることもなく、取材を交わしたという。

「今恋人はどこに住んでいるんだ」
近藤と土方は担任の住んでいたアパートを訪ねる。何を聞いても、住民の皆は揃って口を固くしていた。近藤たちが警察の回しものかと思ったらしい。
アパートやマンションの住民というものは、こんな時、妙な連帯感が生まれるようだ。
「俺たちは銀八先生の生徒です」と言い、学生証まで見せると、漸く警戒の糸を解いてくれた。
「マスコミが嫌だからって、田舎の知人宅に行っちまったよ。」
場所は、2時間近く電車に揺られなければならない。
「名前は」「高杉さん。高杉晋助さんという」

恐らく、銀八のことを聞けるのは彼しかいない。
わざわざ彼の避難所まで追いかけて、あれこれ突こうとする自分たちはマスコミと何も変わらない、と言われたとしても、
赤の他人と違い、自分たちには話を聞き出す権利があると、勝手に思うことにした。
それ以前に、居ても立ってもいられない、というのが本音だ。


殺人者の恋人
4.
必要最低限のものを鞄に収めて、駅から特急に乗ること約1時間45分。
辺境の地だ、という土方の第一声で、その土地を説明するには十分だった。
何もないというのは失礼だが、都会と比べたら殺風景なことこの上ない。
駅前の小さな駄菓子屋が目に焼きついた。色鮮やかな場所がそこしかなかったからだ。

高杉晋助との面識はないし、何の連絡手段もなかったから、突然訪問という形になる。
話を聞くどころか、門前払いかもしれない。
「俺たちが敵じゃねえって分かれば、家にあげてくれそうだ」
土方は至ってポジティブ思考だ。坂田銀八と一緒にいた恋人が、土方の目には優しく映っていたのかもしれない。
銀八も中々の美男だから、ちょうど二人が絵になって、清白で綺麗なイメージがあったのだろう。

携帯の液晶画面を開くと、15時を過ぎていた。30分ほど歩いた気がする。辺りはますます空虚さを増している。
「ここだ」と土方が指さした先には、古びた一軒家がいくつか立ち並んでおり、そのうちの、一番壁が白い家だった。

表札には『平賀』とある。高杉晋助の、知人の苗字だ。
ドアベルに指を宛がい、小さく息を吸い込んだ後に、押してみる。
金切り声のような甲高い音。これで後戻りは効かないと、近藤は重い溜息をついた。
平賀、という奴と、高杉、どちらが出るか、構えた。

「はい」とエコーのかかった返事があった。土方と顔を見合わせると、「高杉さんっぽい」と確信したように頷いた。
土方を信じて、近藤はマイクを通して言った。
「近藤と言います」
おいおい、それだけか、と土方が呆れたように横目で睨んでくる。
「どちらの近藤さん?」と問われた。「坂田銀八先生の、高校の生徒です」

沈黙。

高杉がその瞬間何を思ったのか、近藤は想像した。
疑われたか。そもそも生徒がこんなところまで何の用だ。何故この場所を知っている。
事件のことを詮索しに来たか。面倒な連中だ。
そんなふうに思われただろうか。
近藤は妙な汗を掻いた。土方は黙ってドアをねめつけている。
ガチャリと鳴った。ドアが開かれた。

「どうぞ」

色々と口実は用意していたが、そんなものは必要なかったらしい。
色白で、滑らかな輪郭。
彼はぞっとするほどの美しい微笑で、すんなり近藤たちを受け入れた。

5.
まっすぐ居間に案内され、ソファに腰をかけて待っていてくれ、と言われた。
近藤と土方はぽかんとする。突然、異空間に案内されてしまったような感覚だ。
その異空間、という表現も決して大げさではない。

「何だ、この部屋は」

近藤はきょろきょろと見渡す。
パソコンが数台。資料が山積み。システムや医療関連の部厚い本の並列。
科学者の研究室を思わせるような一室だ。
「すげえな。平賀さんて人、もしや研究者なのか」と土方に同意を求めると、土方は呆然とキッチンを眺めていた。
視線の先には、茶を入れている高杉晋助の後ろ姿。

「すっげえ美人だなあ…」
うわ言。
お前は一体何をしに来たんだ、と言いたくなった。確かにいざ対面すると、目を見張るものがあるが。
「先生のこと聞きに来たんだろうが」
「わかってら…いやあ、でもあの野郎。羨ましいなあ」
土方にとっては、惨劇を一掃してしまうような容姿だったのだろうか。
近藤はどちらかと言えば、苦手、という単語が浮かんだ。

「紅茶でいいよな?」
彼は黒い無地のロンTに、青白いのデニムという、シンプルな恰好だった。
だがその物腰は、高校3年の近藤たちにとっては充分すぎるほど色っぽく、圧倒されるものがあった。
ティーカップを受け取った土方は、すっかりとろんとした目になっている。

「いきなり押しかけてすいません…茶まで御馳走になってしまって」
近藤が頭を下げると、高杉は特にそれを気にした風でもなく、「銀八は慕われてるんだな」と微笑んでいた。坂田銀八への情を感じさせる言葉だった。
「俺は高杉晋助。ここまで来たところを見ると、とっくに聞いてると思うけど」
「ええ、勝手ながら…俺は近藤で、こっちはクラスメイトの土方です」心底申し訳ないと思い、目を反らす。

ところで、と場の空気を読まずに口をはさんだのは土方だった。
「高杉さん、ていくつっすか?」
近藤はぎょっとして、土方を睨む。お前、この状況でその質問はないだろうが。
同時に高杉の顔色を恐る恐る覗う。
「25だ」
気分を害した返事ではない。
年下に好意を抱かれていることを察したように、土方に艶やかな笑みを送っている。年上ならではの、余裕かもしれない。

「俺と8歳差だ…」
まだその話題か、と近藤は思わず拳を握りしめてしまう。
世話になった担任が殺人を犯し、しかも自殺したというのに、その抜けた面は何だ。下心丸出しではないか。
相手は凄惨な事件で恋人を失っているのだ。
高杉がどんな気持ちで自分たちに接しているのか、想像の及ばないところにあり、気が気でなかった。

「それはそうとして、聞いてもいいですか?」
早く本題に持ち込まなければ、と思った。高杉は笑みを絶やさないが、目つきが変わる。

「答えられる範囲なら。それに、俺が本当のことを答えるかどうか、その保証はない。それでもいいな?」
彼が腰を下ろして、先手を打ってきた。それはもはや、何を聞いても無駄だ、と言われているようなものだった。
全く信用されてないのだ。
中に入れてくれたのは、自分たちがうんと年下の子供だから。

「俺たちは先生のことが大好きだし、今回の事件だって未だに信じられない」
「だが真実だ」
「何聞いたって警察に言ったりしねえし、ただ単に、先生がどうして人殺しなんか…それを聞きたいだけなんだ。あんたしか聞ける人いねえんだよ」
「お前のその考え方は、俺の心中は全く無視だな」
鋭い言葉が返された。
「俺と銀八がそこまで深い仲だと思ってんなら、俺に聞くのは以ての外だろ」

返す言葉を失ったところで、誰かが部屋に入ったことに気づく。
「おかえり」と声のトーンをあげて高杉が腰を上げる。
振りかえると、随分と体格のよい、大柄な男が突っ立っていた。ハンマー投げとか出来そうだ。
買い物帰りだろうか。スーパーの袋を掲げていた。

近寄る高杉に、お客さん?と目で尋ねている。高杉の答えが、こちらには届かなかった。
「キャベツが安いのなかったよ」
「ああ、いいよ。サンキュ…今紅茶入れる」
「なら部屋で待ってる」
近藤たちに挨拶をすることもなく、そそくさと彼は階段を上がっていった。

「人見知りなんだ」
すまなそうに高杉は呟いた。
「あれがもしかして、平賀さん?」
ここの住人だということはやり取りを見れば分かる。


「平賀三郎。新しい恋人なんだ」


え、と近藤は目を丸くする。その隣で、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたのは土方だ。

「こ、恋人っ?」
思わず聞き返してしまう。事件からまだ1週間も経過してないというのに。

「ここだけの話。あいつを早く忘れるための手段だ…」

高杉の一部が垣間見えた瞬間だった。ああ、そうか。ここに来るべきではなかった、と後悔し、恥の含んだ目線を落とす。

「すいません…俺たち、何も知らずに」
「いいよ。分かってもらおうたって、無理があるだろ」

一番辛いのは、この恋人だということを、何故気付かなかったのだろう。
坂田銀八の殺人と自殺。自分たちが鈍器で頭を殴られたような衝動を味わったなら、この恋人は、それ以上の、
言いつくせないほどの悲痛と苦痛を味わったに違いない。
おまけにマスコミに目をつけられ、常に追いかけられる始末だ。

6.
後は潔く引き下がることだけだ、と近藤は思った。
土方はまだ話したそうだったが、無理やり腕を引っ張り、これで失礼します、と高杉にお辞儀する。
「これから飯作るけど、食ってけば?遅くなるだろ」
「いえ…これ以上は」
「せっかくこう言ってくれてんだ。食ってこうぜ」
「トシ!」
「俺は構わねえよ。長旅だったろうし、腹も減っただろ?」

高杉は優しげな眼差しを送ってくれるが、本当は迷惑なんだろうと思う。
これ以上気を遣わせないためにも、自分たちは早く退散したほうがいい。
取りあえず出された紅茶だけは飲みほしておこう。
「なら車で駅まで送ってやるよ」

車は都会に住む自分たちには無縁のものだった。
高杉が運転席について、中から「乗っていいぞ」と指で合図してくる。
(何ちゃっかり隣に座ってんだ…)
普通は客が二人だったら、二人とも後部座席だろ、と近藤は内心ぼやいた。
10代の心に火がつくと、純粋過ぎて逆に怖い。同じ10代の自分が言う台詞ではないが。
「俺、前でもいいっすよね」と馴れ馴れしく高杉に接している土方は、すっかりのぼせ上っているらしい。
諦めていないのか。新しい恋人が出来た、と言われたばかりだろう。
否、そういう問題ではないと思うが。

「高杉さんてどんな男がタイプなんすか?」
近藤は頭を抱えた。こいつの言動はどれもこれも爆弾が仕込まれている。

「そうだな。退屈しねえ奴かな」
尊敬しますよ、と思う。よく普通に受け答え出来るな。
坂田銀八とはどのような日常を送っていたのだろう。高杉の言葉の端々から想像してみる。

「そういえば、平賀さんは研究者か何かですか?」
無理やり話を反らそうと、思いついた質問を投げかける。
「ああ、あの部屋見て思ったのか」「ええ」
「あれは俺の趣味。三郎も機械職人だけど、医療とかのほうは専門外なんだ」
「えっ、高杉さんて医大出とか、そんな感じ?」
「まさか。ただのシステム専門の大学だよ。親が脳外科医だっただけで」
医者の卵。彼は医者を一時は目指していたのかもしれない。最初から育ちの良い印象はあった。

「頭いいんだなあ、高杉さんて」
今の土方は、高杉のこととなると、何でも良い方向に受け止めるらしい。
いつの間にか、近藤は土方の見張り番のような立場になっていた。

車で行けば駅まであっという間だった。
「お互い、気の滅入らねえよう」と、近藤は高杉に肩を叩かれた。
土方がむっとした顔をしたので、そんなことで嫉妬するな、と目で叱咤してやる。
「そうだ高杉さん、メルアド交換しないっすか?」
「おい」
「ああ、いいよ。あんまり返せないかもしんねえけど」
高杉に気を遣わせてないか、と冷や冷やしながらも、そのやり取りを黙って見ているしかなかった。

アドレスを手に入れた土方は満足気に、改札の奥にいる高杉に手を振る。
近藤は軽く一礼し、向こうが背中を向けるまで様子を覗っていた。
何も解決しなかった。真相は雲隠れしたまま、明日を迎えようとしている。

7.
「あ、んん…っ」

高杉はベッドサイドにしがみつき、後ろから貫かれる快感に耐えていた。
限界が訪れたのか、孔を貫く男の声が切なげに呻き、挿入部から白濁が滴り落ちる。

「晋助。膝枕」

大柄の男は性欲を発散させてすっきりしたのか、大きく伸びをして、だらしなく横たわり、頭を差し出してきた。
子供のような仕草に溜息をつき、高杉は力の抜けた下半身を何とか持ち直し、正座をすると、男の後頭部を太腿の上に置いてやる。

「身体には慣れたか?」
「ぼちぼち。この身体も長くねえだろうし」

男は夢心地になったらしい。頬を色白な太腿に擦りつけ、しがみついた。

「このすべすべの感触が、たまんねえんだよな」
「エロ親父だな」
「俺は健全だよ。お前の身体がエロいんだ」

そんなふうに幸せそうな顔をするこの男が、高杉は心底愛おしいと思う。

「晋助」
「ん?」
「また、人殺していい?」

あまりにも無邪気な顔で、この男は問うてくるのだ。
自分は男のそんな願いを叶えることが、いつしか生き甲斐となってしまった。

「後始末は気にすんな。俺に任しとけ」
「さっすが、俺の晋助」

坊やだ。この坊やに究極の遊戯を、狂気の遊戯をさせてやりたい。そんな親心を持って、高杉は男の頭を撫でてやる。

「俺の“データ”が消滅したら、晋助も死んでね。寂しいからさ」
「…………」

その時を想像する。高杉は死の恐怖を覚えながらも、それを既に凌駕している自分の精神には驚かされる。

「安心しろよ。ずっと一緒にいてやるから」

そう答えてやると、男は決まってこの上なく嬉しそうに、にっこりと笑うのだ。


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