文其二-二。
□にくいアイツは純白の丸いやつ!
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「れっどせんせーさようなら!」
「さようなら」
ぺこりと会釈して立ち去る親と、その大きな手に引かれながら手を振る園児。
最後の園児を門まで見送って振り返れば、後の園内に残るのは暗闇と静寂だ。
いよいよ冬本番ということもあって外は暗くなるのも早いし何より空気が冷たい。
漸く訪れた一人きりの空間と勤務終了の目処に気が抜けて、レッドの口からはぁ、と小さな息が零れては白い煙となって消えていく。
遅番でお迎えの極端に遅れる保護者が出た場合は、こうして一人で残るのが常だ。
掃除は粗方終えてあるので、後は若干散らかったおもちゃを片付けてごみを捨てて電気を消して、戸締りをして帰るのみ。
外の空気の寒さにぷるぷると体を震わせながら、明りのついた部屋に入り込む。
暖房の効いた部屋はじんわりと体を温めてくれる。
だけど何故か今日は一段と一人でいるこの部屋が広く感じてしまう。
昼間はわいわいと賑わうこの子供たちのサンクチュアリも、夜になればただ静けさの支配する寂しい無機質な空間でしかない。
(…早く、帰ろ)
ぷちりと暖房の電源を落として、いそいそと片付けを始める。
ここの片付けが終わったら後は職員室か。そういえばまだコップ類を乾燥機から出してない。
ゴミ箱も綺麗にしないと。
あれこれと後の業務を考えながらおもちゃの整理を終えた。
早く鞄を持って立ち去りたいという気持ちも大きいが、ここまで来たらもうゆっくりやってゆっくり帰ろうという気持ちのほうが勝る。
一日のハードな仕事内容にぼんやりと意識を薄らげながら、ふと今日はあの人に会えなかったななんて自分らしくない考えにため息をついた。
ところで。
『おぅわっ!』
外から響いたがしゃん、がらんという大きな乾いた音と、男性の悲鳴。
本来なら聞こえるはずのない物音と声にレッドはぎくりと体を固くした。
弾けたように扉のほうへ目を向けると、バケツががらんがらんと無機質な音を立てて廊下を回転している様子が見える。
それと、同時に。
「………あ」
慌てて回転するバケツを止めようとする、蹴飛ばした張本人であろう人物がガラス張りの扉や窓越しに見えて。
不審者に対する警戒心が解けるとの同時にまた違う意味で心臓の音が早くなる。
だってその、いつの間にか見慣れてしまった茶色いつんつんの髪の毛とスーツは。
ついさっき会いたいなんて柄にもなく思ってしまった相手ご本人。
「グリーン、さん…?」
何故ここにいるのか分からなくて。
きょとんと目を丸くしながら、尚もバケツと格闘している(慌てて止めようとしたせいで余計にバケツの動きが早まったらしい)グリーンさんは。
顔を上げた途端にしっかりとレッドと目が合ってまた一瞬仰け反りそうになっていたが。
やがて気まずそうに、照れくさそうに。
ぺこりと会釈してくれた。
「あ、あああレッド先生!こんばんは!」
「こん、ばんは…?」
からら、と急いでスライド式の扉を開く。
しゃがみこんで両手で強制的にバケツをがしゃん、と押さえ込んだグリーンは慌てたように挨拶をしてくれた。
持ち物や格好を確認する限り、やはり仕事帰りのようだが。
「す、すみませんこんな時間に勝手に!」
「い、いえ…?でもどうして」
「その、今日は出先から直帰で、たまたま前を通りがかって!それで電気がついてると思ったら部屋に先生が一人でいたんで、つい!」
なになにのどこそこ、と出先の場所や地名を話してくれるグリーンの言葉にレッドは思考を巡らせる。
確かにそこからだと自然とこの保育園の前を通って帰るルートになる。
職場や家からも少し離れていて、普段帰り道のルートではないこの場所にお迎えという用事もなくこの地区に来ているという理由がそこで分かった。
「遅くまでお疲れさまでした」
「い、いや先生こそ!大変ですね」
「僕ももう、終わりますから」
バケツを元の位置に戻したグリーンが立ち上がる。
会えて嬉しいという気持ちと、今ここに二人しかいないという状況に恥ずかしい気持ちを隠せない。
…こんな時って何を話せばいいんだろう?
勝手に敷地内に入ってきたことを咎める理由もないし、自分がいると知って歩み寄ってきてくれたという事実は嬉しいし。
何もしていないのに頬が熱くなる。
「……、」
口が何かを言おうと開いては閉じていく。
もっと話していたいけれどもう電気を消さなければならない。
グリーンさんだって、たまたま寄ったのだろうけれど早く帰りたいに違いないだろうし。
今更ながらに何となく一日の業務で乱れた髪の毛を手で直しつつ、俯く。
よくよく考えるとこんな仕事終わりのぼろぼろな姿を見られるのは、とても恥ずかしいことだった。
「…今日は先生、一人なんですか?」
そして暫しの沈黙の後に飛んできた質問。
どきりと心臓が跳ね上がる。
もちろん、その質問自体は何の問題もない。当然の疑問だろう。
だがその後一人ですと自分が答えた後にどんな反応が返って来るのだろうか。
「あ…はい。遅番だったので」
先ほど暴れまわっていたバケツを何の気なしに持ち上げながら、小さく答える。
俯いてしまっているからはっきりとは見えないけれど、グリーンさんがこちらを見ていることははっきりと分かった。
「帰りも一人、ですか」
「そう、ですね」
それはごく当たり前のこと。
一人で居残っていたのだから、一人で帰るしかない。
どうしてそんなことを聞くのだろう?と内心首を傾げながらも次の言葉を待つことにした。
じっと見られているような気がして、顔を上げられない。
んん、とグリーンさんは尚も何事か考えているようだったが、やがて。
「…ここで待っててもいいですか」
「え?」
真面目な声ででそんなことを言い出したものだから、何を待つのだろうと当然の疑問に行き当たって、思わず顔を上げた。
ぱっちりと合う視線。
それにレッドが怯むよりも早く。
「俺、家まで送ります」
そう言ったグリーンさんは、とても柔らかい笑顔を浮かべたのだった。
月明かりに伸びる二つの影。
歩幅が違うはずなのにぴったりと綺麗に並んでいられるのは、多分隣の人が歩調を合わせてくれているからだろう。
「それにしても寒い、ですね」
「そう、ですね…」
ぽてぽてと。
お互いに前を見ながらの何気ない世間話。
せっかく話題を振ってくれているのに、そんな返答しか出来ないものだから会話が続かない。
こんな時ばかりは口下手な性分が嫌になる。
だけど、こんな状況。
好きな人と、初めての二人っきりな空間。
しかも家まで一緒に帰ってくれる、なんて。
普段以上に緊張してしまうのも仕方ないではないか。
(何か、話題…)
気が付けばがちがちに緊張してしまっている体。
心臓がどきどきと煩くて、呼吸だって上手くできない。
せめてこの緊張を、隣を悠々と歩いているグリーンさんに気付かれていませんようにと祈りながら、いつかと同じように小さく息を吐いた。
「お疲れですね」
「…え」
ふと落ちてきた声に顔を上げる。
隣を歩くグリーンさんをこの度はじめてまともに見上げると、彼もまたこちらを見下ろしていてくれて。
その気遣う優しい声と目にたまらず、慌てて視線を逸らしてしまう。
「そんな、ことは…」
そんな風に見えているのだろうか。
あるいはずっと黙っているのがいけなかっただろうか。
せっかくの二人の時間なのに、そんな気遣いをされてしまってはたまらない。
雰囲気を変えるためにも何か明るい話題をと思って口を開こうとするが、どうしても零れてくれるのは微かな息とひゅ、という音くらいで。
もっといっぱい話題はあるはずなのに。
ぐるぐると思考とを巡らせては更に緊張していると。
「先生」
「は、はいっ?」
「お腹空きません?」
「は、はいっ」
唐突に尋ねられて、反射的にそう答える。
よくよく考えると何を正直に答えているんだと恥ずかしくなったけれど。
それを聞いたグリーンさんは、また優しく微笑んで。
「じゃあちょっと、寄り道しましょうか」
そうして道を歩き出す。
寄り道という言葉にまた緊張してしまいながら、後を追いかけると辿り着いたのは通い慣れた近所のコンビニ。
外は寒いからと、勧められるままに一緒に店内に入り込む。
たまに自分も使うそこにグリーンさんと入るというのが何とも不思議な気分だった。
「肉まん食べられます?」
「あ、はい…すき、です」
「じゃあ、それ二つ」
レッドの返答を受けるなり店員に声を掛けたグリーンさん。
何が起こっているのか分からなくてぽかんとその様子を眺めていたのだけれど。
「どうぞ」
「え」
「食いながら帰りましょう。行儀悪いですけど」
差し出されたほかほかの肉まん。
美味しそう。
いや、絶対においしい。
たまに帰り道に買い食いをする時もあるから、その味はよく知っている。
だけど、それをまさかグリーンさんから頂くなんて。
「あの、お金…」
「いいですよ、俺が食べたかったんですから」
しかも奢りだなんて。
申し訳なくて何度も財布を取り出そうとしては止められる。
それ以上何のかんのと言うのも失礼かな、なんて思ったので大人しくご厚意に甘えることにした。
「じゃあ…頂きます」
「はい」
外に出るとやっぱり相変わらずの冷気。
あまりの温度差にぷるりと体がまた震えたけれど、肉まんの温かさに意識を奪われているレッドとしてはどうでもいいことだった。