文其二-二。

□猫の八つ当たり
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「レッド、いるかー…って」

姉に「クッキーを焼いたから、レッド君を呼んで来て」と頼まれたものだから。
それに大人しく従って徒歩一分程度のお隣さんへの伝達係になったグリーンは。
いつものように勝手知ったる事務所の扉を開けて優雅にティータイムと洒落込んでいるであろう所長様に声を掛けた。
…のだが、どうにも人の気配が感じられない。
部屋には誰もいなかった。
はて、事務所の鍵は開いていたのにこれは一体どういうことか。
首を傾げながら、まあ簡易キッチンか寝室で寝ているかのどちらかだろうと結論付けて(それはそれで無用心も甚だしいが)
何となく気になってその見当をつけたあたりを探しに行こうと、したところで。

ちりん。

小さな鈴の音が聞こえた。

(…ん?)

ふと所長席のほうを振り返る。
ステレオタイプよろしく窓を背にする形で配置されている、それなりにご立派な机。
その机の上に、それはいた。

「猫……か」

確認するまでもなく、また確認したところで答えてくれる人物もいない。
とにかく、猫。
艶やかな黒い毛並みとガーネットのような真っ赤な瞳をこれでもかというほどに主張する、猫。

本来なら異質なその光景も、グリーンはまたかの一言で済ましてしまう。
この事務所で猫を見かけるのは今日が初めてではない。
気まぐれ稼業なれど探偵事務所。迷い猫、犬、鳥はては爬虫類等の捜索依頼を受けることもある。
特に猫に関しては所長本人がこの周辺の猫溜まり場を把握している感すらあって、そのお陰でその筋(ブリーダーネットワーク)からも頼りにされているとか何とか。
それはともかく、まあそういうものだから飼い主が迎えに来るまでこの場所が臨時ペット預かり所になることも多々あるので。
今日もまたその類だろうか。
書類で見た記憶もないその姿に、どうせまた気まぐれで受けた依頼なのだろうと内心ため息を漏らしながら。
(所詮己はただの知り合いで、バイトの助手のような立場。依頼を受けたら逐一知らせろなんて言える立場ではない)

「えーと、どれどれ。お前の飼い主さんはどちらさん…って。ないのかよ」

その存在を特に警戒することもなく所長席に近付けば、猫は軽やかにぴょいんと机の上から下りた。
なー、と鳴く猫を横目に見つつ机の上の依頼書の綴りを捲る。
だがこの姿に該当する依頼書が見当たらない。
他の場所がさがさと探したけれど、それらしきものは見つからない。

「っ、おお。何だよ腹減ってんのか」

探している最中に、足元に擦り寄る…というよりは頭突きに近いものをかましてくる猫に語りかけながら。
少し待ってろよなんて軽い返事をしてぱたりと綴りのファイルを閉じる。
簡単な資料作成は完全に助手任せのレッドのことだから、依頼書を作るという概念すら頭になかったのだろうか。
いやまさかそんな。
何か引っかかるものを感じながら、まあないものは仕方ないとばかりに小さくため息をついた。

そしてまた、みゃあ、と。

今度こそ呼びかけに近い声で鳴かれたものだから。
改めて足元の存在へ目を向ける。
よく見れば見るほど、艶やかで美しい毛並みの持ち主だ。
加えて何となくきりりとした顔つきとその象徴的な瞳に、何となく誰かを思い出すのは自然な流れで。

「…もしかしてレッドの飼い猫か?」

そんな仮説が浮かび上がる。
いや、しかし。いくら飼い主に似ると言ってもこれは似過ぎじゃないか。
或いは姉辺りが弟分そっくりなこの猫を見つけて喜んで飼うことにした、とか。有り得ない話ではない。
だけど職場で猫を飼うってどうなんだ。
納得のいかないままうーんと首を傾げるグリーンに、猫は尚もみゃあと鳴く。
残念なことに翻訳機なんて便利なものを所持していないため、何を言っているかは全く不明なのだが。
とにかくその可愛らしく、そしてどことなく美しい姿に惹かれたグリーンはここで漸くしゃがみ込む。
顔を覗きこむと、同じように見つめ返されて何となくくすぐったかった。
思わず撫でたくなって手を伸ばす。

だがそうするとするりと避けられてしまった。

たたたっと軽やかに避けた黒猫は、そのまま所長席の椅子の後ろに隠れて。
しかしそこからひょっこり顔を出してこちらの様子を伺っている。
ふむ、この焦らし方。まさに猫らしい動きだ。

「って、遊んでる場合じゃなかった…レッドだレッド。飯はまた後でな」

懐かれる訳がないと頭のどこかで理解していたグリーンだから、特に惜しがることもなくそのままあっさりと立ち上がる。
何にせよ本人を探して問い詰めたほうが早い。
今更ながらにそう結論付けて、もう一度名前を呼びながら部屋を移動する。
猫が後から付いて来てはちりん、という鈴の音とにゃう、という不満そうな鳴き声が聞こえて来た。

「いねぇな」

しかし、探せども探せども。
レッドの姿は見当たらない。
見当をつけていた場所にもいないものだから、流石にこれはちょっとおかしいのではないかと思うようになった。
出かけているだけならいいが、何にせよ鍵は開けっ放しだったし。
何となく気になって携帯に電話を掛けてみると、所長席の辺りからやはりというか何というか着信音がして。
携帯しろよと小言を言いながら、だったら少し出掛けているのかもしれないなと暢気な結論を出した。
或いは入れ違いで姉のほうへ向かったかだ。どちらにせよ焦る必要はない。
そんな気がしたので。

「…ま、そのうち戻ってくるか」

お気楽な考えではあったが、何となく力が抜けてぼすんと来客用のソファに腰掛ける。
戻って来るまで待とう、だから少しだらけよう。
そう考えて靴を脱ぎ、そのままだらしなくソファに横になった。
にゃう。不満そうな声が聞こえる。
何だよ、どうせ客なんてたまにしか来ないんだからいいじゃないかよ…。

「眠くなって来たな…」

姉に連絡を入れなければと思うのだが、何故だか思うように体が動かない。
異様な体の重さと意識の不明瞭さに、気が付けばうつらうつらと舟を漕いでいる自分。
そうしているうちに横になった枕元、正確にはソファの端っこにふと生き物の気配。
床からぴょいんと乗り上がってきた猫だった。
グリーンの顔を覗きこみながら、再度警告するようににい、と強めに鳴く猫。

…なんだ、お前も寝たいのか。

その様子に全くの見当違いな予想をしたグリーンは。
何の遠慮もなしに、誰の飼い猫とも分からないその猫へと両手を伸ばす。
みぎゃ。
あまりにもゆっくり過ぎた動作に警戒を忘れていたらしい猫は、そのまま綺麗にグリーンの腕の中に収まった。
品のある雰囲気からはとても似合わない面白い鳴き声が聞こえたような気がしたが、それはそれで可愛らしいものだ。

「あー…あったけー」

その小さなぬくもりに顔を埋めると、ふわふわと何とも心地よい感触が。
驚きで猫は暫く硬直していた様子だったが、やがて居心地悪そうにもぞもぞと抜け出そうとする。
それが何となく面白くなくて、グリーンも負けじと抱き締める力を強くした。
ぐる、ぐると。今度こそ威嚇の鳴き声をあげた猫に対して、グリーンはやっぱり夢心地。
息を吸うのと同時にシャンプーのいい匂いがしたような気がする。
ああ、うん。いい匂いだ。
温かいし。
もうこのまま離したく、ない……





「ってぇ!!」

びたぁんっと乾いた、いっそ心地のいい音が室内に響く。
全身を叩きつけられたような強い衝撃に見舞われて、グリーンはまどろみの状態から思わず意識を浮上させる。
叩きつけられた、というのはどうやら正しい表現だったようで。
ソファに横になっていたはずの体は、どうやら寝ぼけて事務所の冷たい床の上に転がり落ちてしまったらしい。
いててて、としこたまぶつけた部分を押さえて唸りながら起き上がる。
そうすると。

「…やっと起きたの」

先ほどから探していた人物がそこにいた。
いつ帰って来たのかは定かではないが、手元に紅茶の入ったティーカップを手にしていることからついさっきという訳ではないようで。
どうやら暫くまどろんでいる間に本当に寝てしまっていたらしい、と脳内で理解する。
床に這い蹲った状態のこちらを見下ろして、呆れたような眼差しを向ける所長様の表情はいつになく厳しい。

「あー……俺、寝てたのか」
「間抜け面でね。個人事務所だからって人の職場で寝るなんて、常識を疑うよ」
「…それは申し訳ありませんでしたっと」

普段から好き勝手使用しているけれど、確かに寝入ってしまったのはこれが初めてだろうか。
ばつの悪い気分になりながら小さく謝ると、レッドはふんと小さく息を吐いてからこちらに背を向けて紅茶を一口。
そこで漸く完全に起き上がったグリーンは、先ほどまで感じていた己の腕の中の温もりがいつの間にか消えていることに気が付いて。

「…さっきの猫は、もう飼い主のところに帰ったのか」

姿が見えないことにそう仮説を立てて尋ねる。
きっと肯定の言葉が返って来ると思っていた。のだが。

「…は?」

何を言っているの、というように。
怪訝そうな顔をして振り返られたものだから。

「…ひ」

反射的に間抜けな返答を。
ふへほ、とそのまま続けてくれたらとても嬉しかったが、もちろんレッド相手にそんな冗談が通用する訳もなく。

「まだ寝ぼけてるの」
「え…でも、さっきここに育ちの良さそうな黒猫がいただろ。お前が預かってたんじゃないのか」
「……」
「……」

暫しの沈黙と、
何かを汲み取ろうとしてグリーンの顔を見るレッドと、ぼんやりとそれを見つめ返すグリーン。

「…何言ってるの」


先に視線を外したのはレッドだった。


「寝ぼけてないでさっさと次の依頼の準備」

くるりと再び所長席のほうを振り返って、優雅に紅茶らしきものが入ったティーカップに再び口をつけるレッド。
相変わらず呆然としたままのグリーンは、何一つ分かっていない。
その視線を逸らされた意味も。
ぶつけた頭の痛みの意味も。



(…んん?)

ちりん、とどこかで鈴の音が聞こえた。







猫の八つ当たり
(日の当たらない坂道を三輪車でゆるゆる下れってか)







fin.
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