花冷えのきみ よく晴れた日の、午後のことだった。 春の訪れと共に、ぽかぽかとした暖かい日差しが降り注ぐ店内で、いつものように頼まれた花を束ねていた。 長い冬が終わり、街を歩く人々も増えてきてはいるが、ここらは治安があまり良くないせいか人は疎らであった。 ぼんやりとガラス越しに大通りを眺めながら、着ていたエプロンを外し、束ね終えた花束を抱えて裏口へと向かった。 外に出ると、より一層日差しが眩しく感じられた。チリンと控えめな音を鳴らして閉まった木製の扉にしっかりと鍵をかける。繁盛していない店とはいえ、用心に越したことはない。それに春は不審者も増えるっていうし。 どうせ来客なんて来ないだろうが、一応表の扉の前に『準備中』の看板をかけて店を後にした。 それにしても本当に気持ちのいい天気だ。 真新しい白のワンピースの裾が春風に揺れるだけで、何故かワクワクとしてしまうくらい、私は上機嫌だった。治安は悪くも今まで特に自分自身が何かに巻き込まれたこともないせいで、浮かれていたのだ。 今日はお得意さんのお婆さんの元へ、花を届けに行く約束をしていた。足が悪いそうで頻繁に店に顔を出せないが、うちで扱う花が好きだと言って贔屓にしてくれている。それに花を選ぶセンスもいいのだ。 花の配達が終わったら、少し足を伸ばして甘味処にでも行こう。きっと春の新作スイーツが並んでいるはずだ。 花束を腕に抱え直し、時々近道として使っている路地裏に入る。やはりここは日が入らないせいか、先程の大通りと比べると人もおらず、暗くジメジメとした雰囲気で、前から少し苦手ではあった。自然と早足になり、気持ちも焦っていたその時のことだった。 突き当たりの曲がり角を曲がってすぐのところで、ぴちゃりと水溜りのようなものを踏む感覚があった。何かと思い視線を下にやれば、見慣れない赤い水溜まりがあった。それが血なのだと理解した瞬間、浮かれた気持ちが一瞬で現実に引き戻され、全身からさっと血の気が引いていった。 早くここを離れなければ。 ずり、と後退りしかけたが、今来た道を戻るよりもこの裏道を走り抜けてしまった方が早い。 しっかりと花束を抱え、まるで誰かから逃げるように私は裏道を一直線に走りだした。 別にそこに誰かがいたわけではない、ただ血溜まりがあっただけで、いつのものなのかすら分からないのだが、ただ平和ボケした私には走ることしかできなかった。 無我夢中で走り抜け、気がつけばお婆さんの家の前まできていた。肩で息をしながら、乱れた髪を手櫛でなんとか整える。だが、抱えていた花束は少し形が崩れ、握りしめたせいか少し萎れてしまっていた。 やってしまった、と思いつつなんとか綺麗な状態に戻そうと花束をいじっていると、目の前の扉がゆっくりと開いた。 中から出てきたお婆さんは、私の様子が変だから驚いて出てきたとのこと。 どうかしたのかと心配そうに聞かれたが、血溜まりがあっただけでこんなに取り乱して走ってきたと正直に言うのがなんだか恥ずかしい気もしたし、何より怖がらせてはいけないと思い、何でもないと笑って返した。 それでも肩で息をする私を気遣い、中でお茶を飲んでいきなさい、と言って招き入れてくれた。私もひどく動揺していたせいか、その言葉に甘え、結局お婆さんの家に夕方まで滞在してしまった。 段々と暗くなってきた窓の外を見て、お婆さんにそろそろ帰った方がいいね、と促されハッとした。 「すみません、長居してしまって…」 「いいんだよ。こちらこそいつも花を届けてくれて助かっているんだから。気をつけてお帰り」 玄関で軽く会釈をしてお婆さんの家に背を向けた。その日は結局、甘味処には行かずに店に戻ることにした。もちろん路地裏は通らず、遠回りにはなってしまうが別の道で。 店に着く頃にはすっかり暗くなっており、店の扉に手をかけた時にはどっと疲れが押し寄せてきた。 机の上に置きっぱなしになっていたエプロンをハンガーにかけ、店の電気を消し、裏口の戸締りもしっかりとする。 窓の鍵も全部閉めたし、花の状態も大丈夫だ。一つ一つ確認して、さぁ店を出ようと表の扉の方を振り返った時、何故かそこに立ちはだかるように人が立っていた。 一瞬思考が固まった。驚きのあまり声も出ず、ただ目を見開いて、ヒュッと浅く息を吸い込んだ私は、その人と向かい合うように立っていた。 昼は店内に誰もいないのを確認して鍵をかけていたし、さっき戻って来た時だって誰もいなかったのに。 鼓動が耳元でうるさいくらい音を立てる。じわりと冷や汗が浮かび、両足は地面に張り付いたように動かない。誰でもいいから助けを呼ばなくてはいけないのに、カラカラに乾いてひりつく喉からは声も出せそうにない。 背格好からして男だろう。ただ不気味なのは黙って立っているからというだけではない。 顔や手など服から出る部位は全て包帯で覆われており、その包帯の隙間から覗く眼光や、深々と被ったフードや膝下まで隠すマントが更に男を怪しくさせていた。 「きょ、今日の営業はもうおしまいなんです」 震えながら、なんとか絞り出した言葉はそれだった。だが男はそれには答えず、黙ったまま一歩こちらに足を踏み出した。 だめだ、このままじゃ、と痺れた思考で後退りする。何か、武器になるものはないかと、バレないように後ろ手で机の上を探ると、冷たい金属が指先に触れた。花ばさみだ。 こんなものだが、無いよりましだ。 そのままバレないように後ろ手でハサミを握りしめた。襲いかかってきたその瞬間にこれを振るわなければ。 「ねぇ、」 男が初めて口を開いた。予想より高いテノールの声に、若い男だとわかる。が、その瞬間目の前にその男の顔があった。一瞬何が起きたのか分からないくらい、とても人間が反応できるような速度ではなかった。 振りかざそうとしていた右手のハサミはいつのまにか男に払い落とされ、両手首をがっしりと掴まれている。 ひ、と情けない声が自分の喉から漏れた。 どうにかしないと、抵抗しないと、 「君は花を売ってるの?」 びくともしない力で掴んでいるわりに、呑気な声でそう問われた。 こんな時間にこんな状況で聞くことがそれなのか。 花を売ってるに決まってる。だってここは花屋だし、ちゃんと外の看板にも花屋だと書いてあるし、こんなに店内が花で溢れてるのに肉か野菜でも売ってるように見えるのかこの男には。 質問の意図が分からず口をぱくぱくとさせていると、男は少し顔を離す。 「怖がらせたかな。でも安心して、君に危害を加えるつもりはないよ」 まるで天気の話でもするかのような穏やかな声音が、薄暗い店内に不気味に響く。 どうにか隙を見て、この男の手から逃れなくては。手を振り解いたら、まず床に落ちたハサミを拾った方がいい?それとも股間でも蹴りあげればいい?いや、さっきの反応速度からしたら私の蹴りなんて当たるわけがないし、ハサミを拾う前に行く手を阻まれるだろうし、じゃあどうすれば。 混乱した頭で視線をきょろきょろと泳がしていると、ゆっくりと左手首の拘束が解かれていく。 今だと思った時には、男の右手が顔を掴むように、私の鼻と口を覆った。そのまま鈍い痛みと共に後ろの壁へと押しつけられる。 恐怖と息苦しさに、悲鳴にも似た呻き声をあげるが、男はそれをシーッと言って遮る。 「乱暴はしたくないから静かにしてよ。それより、君にもっといい仕事を紹介してあげようと思って」 今こうして鼻と口を覆って呼吸を阻害していることは乱暴に入らないのか、と酸素の足りない頭で思ったが、ぐにゃりと目の前の男ごと視界が歪み、じわじわと意識が遠のいていく。 最後に見えた男の顔は、やはり包帯のせいで表情は読めないが、青い2つの目がただ黙って静かに私を見下ろしていた。 |