倉庫
□願いは、
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静かな時間だった。
ネズミと紫苑は床に寝そべり、うず高く積み上げられた本のうち一冊を二人して眺めていた。二人して、とは言っても、ネズミは地下室にある本はほとんど読んでしまったから、紫苑が本を読んでいるのをネズミが眺めていたと言ったほうが正しい。
会話もなく、時折紫苑がページを捲る音が聞こえるだけ。
特別なことなど何もしていないのに、ネズミはこの空間がひどく居心地がよいと感じていた。
数日後に矯正施設に侵入するとは思えない。
しかし今更喚いたって事態は変わらないのだ。これは二人にとって最後の休息だった。
準備は整い、あとは前に進むしかなかった。
「怖いか?」
沈黙を破りネズミが紫苑に尋ねる。
「全然」
本から顔を上げた紫苑は少しの躊躇もなしに即答した。
「なんで?」
「ネズミがいるから」
「危なくなったら助けてもらうつもりか?」
「見くびるな。自分の身は自分で守る」
「じゃあどうして」
「きみとなら生き延びる自信があるから」
綺麗事だ、現実を甘く見るな、と辛辣な言葉を投げ掛けることも出来た。しかしネズミは口を開くことが出来なかった。
僅かだが紫苑を拠り所にしている自分を否定出来ないから。
紫苑はそんなネズミの動作を見つめながら、それに、と言葉を付け足した。
「生きてここに帰ってきて、二人で夏を迎えるって言っただろ」
「夏、ねぇ」
冬は淘汰の季節であるが、夏だって生きていくのに決して楽な季節ではない。
うだるような暑さで体力は消耗し、貴重な食料もすぐに腐って虫が沸く。それでも空腹に耐えられず異臭を放つ食べ物を口にして命を落とす人々が数多くいる。
ネズミにとっては季節などどうでも良かった。生きていくのに必死でそんなものは気にしたことがなかったからだ。この状況でどのように食い繋いでいくか、大切なのはそれだけだ。
だが、紫苑と過ごした日々は驚くほど充実していた。
管理された自然環境の中で暮らしてきた紫苑にとってはなにもかもが珍しく、彼は花や木々を見つけては見たときの感動をネズミに話していた。ネズミも紫苑の話を聞く日々の中で季節の移り変わりに、生き残るという観点とは別の意味で目を向けるようになった。
紫苑によってネズミの世界は色づいた。戸惑いはしたが不愉快ではなかった。
あんたはおれにどんな夏を見せてくれるのだろう。
ネズミは好奇心が沸くのを自覚していた。
「夏が終わったら、秋が来るな」
「うん」
当たり前のことを言ったのに紫苑は静かにネズミの言葉に頷く。
「秋は…あんたの誕生日がある」
「覚えていたんだ」
「出会ったのがその日だったからな」
台風の日。びしょ濡れのネズミが紫苑が開け放った窓に入ってきた。二人の運命を変えた日だ。
「誕生日には何かくれるのか?」
「もちろん。陛下は何をご所望で?」
ネズミは紫苑の髪を指にくるくると巻き付けて弄びながらくすりと彼独特の笑い方で笑った。
「任せるよ」
紫苑はそう言ってページを捲った。ネズミはしばし黙りこむ。
小ネズミ達がとたとたと床を走る音が聞こえた。
「…歌を」
「え?」
「あんたに歌を贈ってやるよ。それから抱擁と熱いキスだ」
「最高だ。また一つ絶対に戻らなきゃ行けない理由ができた」
口ではおどけてみせるけど、紫苑の表情は真剣そのものだった。
「特別なディナーも用意してやる。
さて、」
ネズミは身体を起こして身なりを軽く整えた。
「食事にしようか」
「ああ」
紫苑も本を閉じる。
クラバットが待ち望んでいたとばかりに、紫苑の足元に近寄り、肩へと駆け上がった。
静かな、穏やかな時間だった。
*end*