オメルタ▲教授と教え子

□君と誓う未来の果てに
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雑巾をバケツに放り込み、額から流れる汗を青年は無造作に拭った。
そして、ふと窓を見て、そこからオレンジ色の光が差し込んでいる事にギョッとした。

ーー気がつけば世界はそろそろ夜の訪れを告げるに時刻にさしかかろうとしている。
太陽は空の1番高い場所にあったはずなのに、もう沈みかけているその事実に驚かずにいられない。

最初は渋々始めた掃除ではあったが、いつの間にか時間が経つ事も忘れ没頭していたらしい。
青年は思わず苦笑した。

ふぅっ、と息を吸い込めば、埃一つない清潔な空気が肺を満たす。
床は自分の顔が映るほどピカピカに磨かれ、こだわり抜いて新調された家具はどれも真新しい輝きを放っていた。
達成感にしばし浸り、彼は上出来だとほくそ笑み、近づいてくる足音に向かって言った。

「どうだ、埃一つないだろーーー?」

ピタリと、足音がやむ。
振り向くと、地下の整理を終えたらしいその人が清々しい顔でそこにいた。
慈悲深く、多くを経験した大人だけが醸し出せる明朗な雰囲気を纏った紳士を見つめ、青年は言葉をかさねた。

「ーーこれなら一週間後じゃなくて、今夜からだってオープン出来るぞ?」

誇らしげなその声音に、紳士は微笑んだ。

「本当に、随分と綺麗に掃除しましたね、JJ。貴方が雑巾の使い方を知らないと知った時はどうなる事かと心配しましたが、まさかここまで綺麗にしてくれるとは思っていませんでしたよ」

エプロンを腰に巻き、奥から現れたマスターは埃まみれで奮闘した愛しき青年にーーーJJに、笑みを深めた。
JJもついつい微笑み返し、ハッとした。

(うっ、また、つられてしまった……)

ーーー藤堂 庄一郎のその笑みはまるで聖人のようで、その清らかな笑顔に見たものはすべからく毒気を抜かれる。
ーーーが、騙されてはいけない。こんな虫も殺さないような穏やかな顔をした紳士は、バーのマスターにして裏社会では教授と異名をとる男なのだ。
し・か・も、キングシーザーの門外顧問にして、凄腕の情報屋という裏の顔を持つ人なのである。
長い付き合いのJJですら最近知ったこの事実。
侮れない相手なのは言うまでもない。

マスターは、何故か悔しそうにそっぽを向いたJJに小首をかしげ、エプロンを外してカウンターの隅においた。

「よく頑張りましたね。おかげで予定より早く終わりました。ーー偉いですよ、JJ」

カウンターを挟み、マスターはJJの頭をよしよしと撫でた。
まるで始めてのお使いを成功させた子供の様な扱いに、JJはムスッと微かに眉根を寄せた。

「なんだよ、マスター。まるで俺が掃除した事がないような物言いだな?」
「え…?違うんですか?」

そんな経験貴方にあったのですか?と言うマスターの心の声が聞こえ、JJはふんっと鼻をならし、頭を撫でる手をさり気なく払いのけた。

「それくらいあるに決まっているだろう。これでも一人暮らしが長かったんだからな」
「でも君、僕と暮らし始めて一度だって掃除した事なんてなかったじゃないですか」
「やらなかっただけだ。やろうと思えば、俺は何でもできるんだ」

本当は掃除なんてした事などない。そもそもする必要がなかったのだ。
住処を点々として長く居つく事などなかったし、梓を拾ってからは、彼が勝手に掃除していた。
だから、ようは任せっぱなしだったのだが、JJは見栄を張る。

JJの嘘など、人生経験豊富なマスターはすぐに見破ったが、可愛いJJに意地悪な事は言わなかった。
だが、少しだけからかう事にした。

「そうでしたか、それは失礼しました。じゃあ、今夜夕食を作ってくれませんか?貴方の手料理を是非とも食べて見たいです」

にっこりと悪意のない笑顔で乞われ、JJはうっと詰まった。

ーーー俺が料理?

仕事ならナイフを握った事はあるが、包丁を握った事などないJJは焦った。
人をさばいた事はあっても、鯖をさばいた事すらない。
だが、やれば何でも出来ると大見栄張った手前出来ないとは言えなかった。
JJはこほんっと咳をし、明後日の方向を見ながら言った。

「あぁ、まぁ、色々と準備もあるし、手料理は、そのうち……な。ーーーそれにしても、見違えたな。よく短期間で仕上げたものだ」

JJはそれ以上突っ込まれないように半ば無理やり話題を変えた。
正直、下手に包丁など握らせて怪我などされては堪らなかったマスターは、わざわざ話しを戻そうとはせず、ただ頷いた。

「知り合いのいい建築士に依頼しましたからね。このくらい当然でしょう」

室内を見渡し満足そうなマスターの顔に、JJもにっこりと笑った。

ここはかつてJJが憩いの場とし、そしてドラゴンヘッドの氷の処刑台に木っ端微塵に破壊された場所である。
梓を攫われ、奪還するためにマスターと共に乗り込んだそこで、彼は宇賀神を昏倒させた。その事を恨み、宇賀神に報復されて、マスターが大切にしていたエピローグバーは瓦礫の山と化したのはまだ数ヶ月前の話しだ。

だが今、その出来事が嘘だったようにエピローグバーが彼等の目の前にあった。
同じ場所に、同じ佇まいで。

マスターがバーを再開させると聞いた時、まさか同じ場所に建てるとは思っていなかったJJだが、マスターにここ以外考えられないと言われ、納得した。

JJには言わないが、マスターの意地もあったのだと思う。
そう簡単にやられはしないと言う、マフィアとしての意地が。

また宇賀神に狙われる危険性を孕んではいたが、あの事件以降キングシーザーの連中がこの辺りを巡回するようになったからある程度は安全だろう。
俺もついているしーーとJJは内心で呟く。

「基本的な造りは以前とあまり変えていませんが、流石に前と同じ家具を揃えることはできませんでしたね。ーーーでもまぁ、今回の調度品もなかなかでしょう?」
「ああ、悪くない。俺は気に入った」

マスターが密かに買い集めてきた家具は、お世辞でも何でもなく素晴らしい逸品ばかりだったから、JJは素直に同意した。
こくりとうなずくJJの仕草に、教授はうっとりと瞳を和ませた。

「他でもない僕の後継者である君に気に入ってもらえたのなら良かった。ーーーこのエピローグバーは僕だけのものじゃない。僕と君の、二人の店になるんですからね」
「……マスター」

マスターが囁き、互いに視線を絡ませ、だがJJはすぐ瞳を反らせた。

居場所を定めなかったJJの……浮き草の様だった彼に居場所を惜しげもなく与えてくれるマスターに、JJは不覚にも言葉を詰まらせた。

ーー今まで、一人で居る事が辛かったわけではない。
それが当然だったし、両親をなくした俺の当たり前の現実だった。
だから疑問に思う事なく一人で生きてきた。

ーーーでも、孤独だった。

ずっと一人と言う現実。

不満はなかったが、寂しかったのかもしれない。
たから誰かに顧みて貰いたくて、
梓を拾ったのかもしれないと思う事があった。
それでも、無理やり引き込んだという事実が対等な関係を築かせてはくれなかった。

支配者ではなく、対等な関係じゃないと培えないものを、欲していたと気がついたのはいつだったのかーーー。

マスターは無条件にJJを受け入れてくれる。
優しい、暖かさをくれる。
そして、JJも不器用なりにマスターに気持ちを返していた。
彼とは年こそ違うが、対等な関係だと思う。
変に庇護される事も、する事もない。
時折お節介だと思う事はあっても、束縛はされていない。
忠告はされるが、心配しながらもいつだって最後は自分の意志で行動させてくれる。
だから、安心できた。
居心地が、いいと思えた。
だから、この場所がJJ は好きだった。

「ーーーJJ」

マスターに名を呼ばれ、柄にもなくもの思いに耽っていたJJはふと顔を上げた。

「良ければ久々に一杯飲みませんか?ーーー新装したエピローグバーの初めてのお客様は、貴方がいい」

マスターに願われ、拒む理由などない。
JJは頷く代わりに、すとんっと、カウンター席に座った。
ぶっきらぼうで、そのくせ分かりやすい青年に、マスターは笑いをこらえて訊ねた。

「何かご所望のものはありますか?」
「いや、任せるよ」
「ーー承知しました」

マスターは営業用の挨拶をし、
酒が並ぶ戸棚から幾つか取り出しシェイカーにそそいだ。
最近ではご無沙汰にしていた藤堂 庄一郎のカウンターに立つ姿は、やはり様になると、JJは密かに思った。
この人は殺伐とした世界にいるよりも、カクテルを通して人々に安らぎを与える職業の方がずっと似合う。
小気味いい音が鳴り止み、グラスが差し出される。

「どうぞ。何にしようか迷いましたが、やはりこれしかないと思いまして」

出されたそれを、JJはじっと見つめた。
カクテルの名を全て知っているわけではないが、それは知っている。
あの日、バーが破壊された時、
船の上で出された思い出の一杯。
特別な日に飲むものだと教えてくれたそれ。
JJはそっとグラスに唇を寄せた。

「いかがですか?」

マスターに聞かれ、美味いと言おうとしーーーJJは、ん?っと首を傾げた。
味は、間違いなく文句なく美味い。
だがーーー舌に、何か硬いものが当たっている。
冷たいそれに、氷かと思い、だがすぐに否定する。

冷たいが、ひんやりしていない。
それに、氷にしたって変な形をしている。
妙に薄っぺらくて、厚みがない。
JJはしばし舌先で弄んで、マスターに失礼かと思いつつも、ぺっと手のひらに吐き出しーーー凛とした瞳をはっと見開いた。

「ーーーマスター、これって……?」

幼い子供のような声音に、きょとんとした表情を浮かべて聞いてくる彼に、マスターは珍しく硬い表情を浮かべていた。
微笑えもうとして、しっぱいした。
顔が、緊張で強張る。
そして、やはり硬い声音でマスターはJJを見て、言葉を紡いだ。

「ーー君との門出を祝して何かプレゼントしたいと思って、前々から色々探していたのですが、結局それ以外にいいものが思い浮かばなくてーーー」

マスターは恥らう様に、でもしっかりとJJを正面から見つめて続けた。
「君はあまり装飾品を好まない事は知っていましたが、それならシンプルだし目立たないから大丈夫かと思いして……迷惑でなかったら受け取って欲しいのですが……」

「コレを、俺にーーー?」

戸惑うような微かに震えた声音で問われ、マスターはしっかりとした声で言った。

「君以外の誰に、それを贈るんですか?僕がそれを贈るとしたら、貴方以外考えられないでしょう?」

苦笑しながら、でもきっぱり断言され、JJは言葉に詰まった。

自分の掌に、小さな物体がちょこんとのっている。
小さく、硬くて、銀色に輝く輪っか。
これはーーー指輪。

ーーー何と、返事をすればいいのだろうーーー?

JJは考えた。
でも気が動転し過ぎてまともな言葉がでてこない。
JJは自分の中にある蓄積された言語の種類の貧弱さを呪った。

「ーーもし俺が、……誤って飲み込んでいたらどうするつもりだったんだ?こんな小さなもの、下手したらひと飲みだぞ?」
「えっ……?!あー、その線は考えていませんでした…」
「飲み物に異物を混入させるのは衛生面上どうかと思うぞ?」
「す、すいませんでした…」

冷やかに指摘され、マスターは
冷や汗をかいた。
JJは、稀にしか見られないマスターの動揺していた姿に内心で笑った。

JJは果たし状でも叩きつける様にいかにもぶっきらぼうにマスターに手を突き出した。

「嵌めてくれるんだろう?」

言った途端、耳やら顔やらが赤く染まってくのをJJは自覚したがどうしようもない。
掌の指輪を無理やりマスターに握らせる。

「貴方に、コレを嵌めても、いいんですか…?」
「その為にくれたんだろ?それに、指輪は嵌めるためにあるんじゃないのか?」

こう言う時ですら素直になれない自分を、JJは心底嘆かわしく思った。
でも、彼の照れ隠しをちゃんとマスターは見抜いてくれる。

マスターはそろそろと彼の手を取り、自分の掌にJJの指先をのせた。
マスターは震える自分の指を叱咤して、散々悩んで買った指輪をJJに嵌めた。

JJの指にーーー左の薬指に銀色のそれがしっかりと嵌る。

彼の長い指に、それはよく映えた。

マスターは思わず、カウンター越しに、JJを引寄せて抱きしめた。

「ちょっ……マスター?どうしたんだよ?」
「嬉しいんですよ。貴方がここにいる事が。私の……腕の中にいる事が」
「マスター……」

震えた声で囁かれ、JJもマスターを抱きしめた。
互いの温もりが、心地いい。
マスターはしばし、JJの温もりを堪能し、耳元で囁いた。

「君を、今すぐ抱きたい。駄目……でしょうか?」

断られたらどうしようかというマスターの気持ちが声に滲んだが、それは杞憂と言うものだ。
こういう状況に疎いJJだって、流石にどうすればいいかわかっている。
だが、素直に口に出して承諾するにはまだ経験が足りない。
だから、答える代わりにマスターの唇を自分のくちびるで塞ぐ。

優しく重ねて、舌を差し入れる。
すぐにマスターがJJの舌の動きに応じてくれる。
ちゅっ、くちゅっと、何度もしたを絡ませ、唇を離し、そして触れ合わせる。

「JJーーー」

ーー長い長い口付けを解く。

マスターが、カウンターから出て、再びJJを抱きしめた。
ーー太ももに、彼の雄が当たる。
それはもう、臨戦体制にはいっていてJJは思わず笑った。

「若いな、マスターは」

からかうと、マスターがクスッと笑った。

「君ほどではないですが、まだまだ負けませんよ」

嘯いて、マスターはJJを抱え上げた。
揺るぎなく、宝物を持つような慎重さで。
そのまま、奥のソファに運ばれる。
JJはマスターの首に腕を回した。

これから、せっかく綺麗にした店が汚れてしまうだろうがそんなの知った事ではない。

ーー窓の外の日がくれ、空に月が登りだす。

そういえば今宵は七夕だったなと、JJは不意に思い出した。
今日は離れ離れだった織姫と彦星が、一年に一度、愛を確かめ合う特別な日。

引き離されても結局は引き合う織姫と彦星は自分たちの関係と少し似ていると思った。
どこに行っても、何度遠くへ行っても互いに引き合って離れられない運命とかが。

運ばれながら、JJは指輪を見つめた。
キラキラと、銀色に輝く愛の証。
月よりも真ん丸で、美しいそれが自分の指で輝いている。

空には月と無数の星々がキラキラと輝きを放っている。
ーー愛を誓うには……愛し合う者たちが初夜を迎えるのにこれ以上相応しい日はない。
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