オメルタ▲教授と教え子

□恋は盲目
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「ありがとうございました」
最近では随分自然に出る様になった言葉を口にし、JJは客の背中を見送った。
エピローグバーに訪れた今夜最後の客の背が扉の向こうに消えた後、自身もその後を追う様にドアを開けて外に出た。

もうすぐ白み始めようかという空を見上げ、扉に下げていた看板をCLOSEへとひっくり返す。外の気温は随分と肌寒いモノだったが、嫌いではない。
店内を忙しく動き回って汗をかいていた身体には、寧ろ気持ち良くすら感じた。

「ご苦労様です、JJ」
「あぁ。アンタもお疲れ様」

しばらく朝の澄んだ空気に当たって店内に戻ると、グラスを慣れたてつきで磨いているマスターに労われ、JJも同じ様に労いの言葉をかけた。

客が帰ったからと言って、店員がすぐ帰れるはずもなくマスターはいつものように片付けを進めている。
それが閉店後の、いつもと同じ、いつもと変わらない風景。

「今夜は疲れたんじゃないですか?週末ということもあって、いつもよりお客様が多かったですからね。君も、気を遣ったでしょ」
「あぁ、まぁ…そうだな。確かにちょっと多かったな」

そういえば今夜バーの入り口のベルがなった回数は一体何回だっただろうか?と、ふとJJは考えた。
途中まではゆったりと数えていた回数は、だが開店して一時間も経たないうちに数えることをやめていた。

俺が今更改めて言うことではないが、藤堂 庄一郎ほど上手い酒を作るバーテンダーはそうはいない。
営業を再開してまだ日も浅いのに、兼ねてからの常連客はもちろん、新規の客も含め、彼の味を求めて訪れる客は日に日に増えていた。
訪れた客から噂を聞きつけて、また新たな客が次々に訪れる。

彼の味を一度口にし、他の店では飲めなくなってしまったと二日とあけずに通ってくる客も多い。
味の好みにうるさい訳ではないJJも、マスター以外の店で酒を飲もうとは思わなかったほどに、彼の作るカクテルは格別なのだ。
作り手の性格や感情などが反映されるカクテルには、マスターの人柄の良さがにじみ出ていて、訪れた客に安らぎを与えている。
何かと殺伐とした時代に、彼はその腕一つで人々の心を癒しているのだ。
おかげで、何度も通ってくる客が多く、人の顔を覚えるのが苦手なJJでも、どの客が常連だとか、客の好みの酒がなんであるのかなど覚えるのが楽で助かっている。

今夜も、マスターは数えきれないくらい様々なカクテルをお客の要望に答えて作っていた。

ーーだが、今夜はいつもと違っていたことに、JJは気がついていた。

「どうしたんです?人の顔をじろじろ見つめて。僕の顔に何かついていますか?」

広くないカウンターで横に並びたち、藤堂と同じくカウンター内に戻ったJJに何か言いたげな視線を向けられ、藤堂は手を止めた。


「別に何も付いてない」
「じゃあどうしてそんなに見つめてくるんです?あ、もしかしてお腹が空いたんですか?だったら何か軽いモノでも作りますよ?」

違うよと、JJは首を横に降り、言うべきか言わざるべきか逡巡したすえ、結局言うことにした。

「マスター、今夜は珍しく機嫌が悪いな」
「そうですか?いつも通りですよ?」
「それは嘘だ。隠したって見てればわかる」

JJははぐらかしても無駄だからなと圧力をかけるように、マスターをじっとりと見つめた。

営業中、マスターはいつも通り終始穏やかに微笑んでいた。
一見いつもと変わらない優しげな笑顔で客を迎え、そして見送っていた。
だが、少なくない時間そばにいるJJには分かった。
マスターは機嫌が悪い。
眉根を寄せたり、あからさまに態度に出ている訳ではないけど、JJにはわかる。
上手くは言えないが、マスターの纏う何時もの穏やかで柔らかな空気が、いつもより硬質なのだ。


「俺…何かマスターを怒らせる様な事をしたか?もし、したなら言ってくれ」

ずっと原因を考えていたが思い当たる事はなく、よく考えてもわからなかった。
今夜も洗おうとしていたグラスを、客の前で一つ割ってしまったが、マスターは大丈夫ですかと俺が怪我をしなかったかを案じていたいただけで、気分を害した素振りはみせなかった。

でも、何となくだが原因は自分にあるような気がした。
俺は人の感情に鈍いところがあるから無意識にマスターの機嫌を損ねてしまっても不思議ではない。
自分が原因でマスターが苛立ちを覚えてしまったなら謝罪したい。

何か答えをくれと待つJJに、マスターはやれやれと内心で苦笑を漏らす。

(まさか、見抜かれていたとは。さすがJJと言うべきでしょうかね)

JJの言うように、今夜の藤堂は機嫌が優れなかった。
いや、今夜と言うより、実はここ最近と言った方が正しいが。


「怒る様な事は、君はなにもしていませんよ」
「嘘はごめんだ。正直に言ってくれ。じゃないと俺には分からない」
「そうですねーーー」

マスターは少し考え、チラリとJJを一瞥し、苦笑した。

「強いて言うならば、君はカクテルの作り方を覚えるより前に、もう少しお客様のあしらい方を勉強した方がいいかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」

藤堂は曖昧にそう答えて、それっきり口を噤んだ。
なんらかの説明なり解釈を付け加えてくれるのかと試しに待って見たが、マスターはそのまま視線を逸らして、次のグラスを拭き始めている。

ーー要領を得ない、どころの話ではない。
JJにはマスターの言葉の真意が分からない。

客のはけたバーに妙な沈黙が落ちる中、グラスを拭く小気味いい音だけが響く。

(よく分からないが、マスターの機嫌が悪いのは俺のせい、だよな…?いや、それとも別の何かなのか?)

どこかで何かを見落としているのだろうか?
人の気持ちを察するのはJJの最も苦手とするところだが、懸命に考えを巡らせた。

マスターは客のあしらい方を覚えた方がいいと言った。
つまりそれがヒントだろう。
JJは出来うる限り、今夜来た客を思い出そうと努めた。
客の半数近くは連れを連れていて自分たちで会話に花を咲かせていたし、一人で飲みに来た客も大抵は自分の時間を楽しみたい奴らばかりで、必要以上に会話した覚えはない。
何人か常連客の顔は思い出せるがほとんどマスターと会話していたし、俺が相手にした覚えは……と、そこまで考えて、JJはあっと小さく声をあげた。

ーーJJが会話があまり上手くないにもかかわらず、ずっと絡んで来ていた客が一人、脳裏を過る。





「もしかして、マスターが言ってるのは、あの客か?あのインテリ系の三十代半ばの男」

JJの声に呼応したかの様に、グラスを拭いていたマスターの手が、ピタッと止まる。
次いで、ついっと、向けられたマスターの視線の冷たさにJJはほぼ確信した。
理由はやはり、これだろう。

「おや、初めていらしたお客様だったのに、もう顔を覚えたんですか?」
「やたらと絡んで来てウザかったからな。イヤでも覚えてる」
「とかなんとか言って、本当は君のタイプだったんじゃないですか?口下手な君が珍しく饒舌に話していたようですし」
「仕方なく相手をしてやっていただけだろ。大体、あんな気難しそうな奴が俺のタイプなわけないだろ」
「でも相手は、熱心に君を口説いていたじゃないですか」
「は?口説く?」

マスターの一言に、JJは訝しげに眉根を寄せた。

(口説くって、どこからそんな発想が出たんだ?)

マスターの口ぶりから察するに、口説かれた相手は俺らしいと言う事は察する事が出来たが、生憎、記憶をほじくり返しても口説かれた覚えがない。
ただあるのは絡まれて鬱陶しかったと言う記憶と、仕事の邪魔だからとっとと帰りやがれという思いだけ。

「悪いが、俺は口説かれた記憶がないぞ」
「おやおや、はぐらかす気ですか。別に私は咎めたりしませんよ。人が人に惹かれるのは自然なことですし、誰にも止める権利はありません」

妙に物分かりのいい口ぶりのマスターに、だが、身に覚えのないJJは呆れ返る。

「おい、マスター。もう一度言うが、俺は口説かれた覚えなんてないんだが?」

真っ正面から見つめてくるJJの瞳とマスターのそれが重なる。
JJの目はいつも通りで、到底嘘をついている様には見えない。

マスターは拭き掛けのグラスを一度カウンターに置いて、もしやと首をかしげた。


「あの…JJ?もしかして…いえ、もしかしなくても、自覚、ないんですか?」
「ないものはない。さっきからそう言ってるだろ」

恐る恐る尋ねたマスターだが、JJにきっぱり否定され、しばし混乱した。
はらりと落ちた前髪をかきあげて、マスターは複雑そうな表情を浮かべる。





誰が聞いても口説いているとしか思えない言葉を大人しく聞いているかと思えば、本人に自覚がなかったとは……拍子抜けどころじゃない。

いや、言い寄ってくる相手に何も感じないと言う事は、JJがお客様にたいして興味が全くなかったと言うわけで、その部分に対しては喜ぶべきなのだろうが、それにしたって……あの時、勝手に嫉妬していた自分が滑稽すぎる。

JJは自分の興味のない事にはかなり無頓着だし、恋愛ごとには疎いと知っていたが、まさかここまでとは。どこまでも彼らしい事に、笑が込み上げてくる。

「君って子は本当にもう…ふ、ふふふっ、はははははっ!!」

なんとか声を抑えようとマスターは手の甲で口元を抑える努力はしたが、どうにも笑いが止まらない。

突然笑いだしてしまったマスターに、JJはしばし呆気にとられた。静かなバーにマスターの笑い声が反響した。
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