オメルタ▲教授と教え子

□孵化
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月光が闇夜をやんわりと照らす時分、俺はクルーザーのデッキに出て波の音をぼんやりと聞いていた。
高い波はなく、穏やかによせてはかえす波に、海上に停泊していたクルーザーが揺りかごの様に揺れる。
静かな……まるで世界から切り離されたような空間には人の気配はもちろん、波の音以外は殆んど音がなく、強いてあげるとすれば汽笛の音が微かに耳をくすぐる程度だ。
長音と短音を操り、周囲に警戒と注意を促す汽笛が、またどこかで鳴っている。
視認出来ないほど遠くに居るらしい船から数度短音が発せられ、針路を右に転じているのだと知る。
みんな同じようにしか聞こえない汽笛が、実はそれぞれに意味があるなどという、普通に陸で生活していれば一生知ることはなかったであろう知識がここ最近一気に増えている事実に、海で過ごした時間の長さを感じざるを得ない。

「…平和、だな」

ぼそっと、誰に聞かせるでもなく呟き、JJはホルスターに入ったまま息を潜めているベレッタへ触れた。
エピローグバーを破壊され、何とか応戦しながらクルーザーで海へ出てからもう一月が過ぎたが、ただの一度も危険な気配を感じることはない。
最初の頃は追っ手がかかることを危惧しそれを念頭に置いて、マスターと二人で夜警を交代してやっていた時期もあったが、それも今はやめていた。
どちらかが負傷しても船を動かせるように操舵も習っている最中だし、ホルスターには常にベレッタを忍ばせて肌身離さず携帯しているが、メンテナンス以外では触れることさえないような有り様だ。
銃弾の代わりに波しぶきが飛び交う長閑な生活など誰が想像しただろうか。
平和などと、一生口にするはずのなかった言葉が出てくるほどクルーザーでの暮らしは平和で、実に拍子抜けするほど穏やかだ。
常に張り詰めた空気に包まれながら死と共存し、スリルと隣り合わせに生きてきた日々が当然だったが、ピンとはりつめたままだった琴線は今や弛みが生じている。
まったく、だらしがないなと自嘲するが……平穏を絵に書いたような暮らしに最初は戸惑ったりもしていた自分も、今ではこの暮らしがすっかり板についてきていた。永遠に続くわけではないとわかってはいるが、こんな暮らしも悪くはないと思う自分がいる。
今でこそこんな調子だが、それでも、一人ならきっと一週間と持たず戻っていただろう。
たとえ身を危険に晒し、困難な状況に陥ったとしてもその道を選んだはずだが―――俺は今、こうして海の上を漂っている。

「――いつまでそんなところで突っ立っているつもりだ?」

少し前から背後に感じていた気配に、だが振り替えることはせずJJは問いかける。
時間にして5分弱じーっと見つめられ、そのうち飽きるだろうと気がつかないふりをしてきたが、いい加減じれったくなってきた。
ドアの隙間から、こちらのようすを伺っていた男は、別段驚いた風もなく、クスクスと軽やかな笑いをこぼした。

「おやおや。気配を消していたつもりだったんですけど……やっぱり気がついていましたか」
「当然だろ。いくら自由気ままに生活してるからって、1ヶ月程度で腕まで鈍ったら死活問題だ」
「そのわりには、警戒心の欠片も感じませんでしたよ?」
「当たり前だ。ここにはアンタと俺の二人しかいないんだ。アンタ相手に警戒する意味なんてない」

マスターに銃口を向けられるなどまず有り得ないし、彼が俺を危険にさらすとは到底考えられない。
温厚で柔和で、優しくて。まぁ、そうじゃない一面もあるが、基本的に人畜無害を地でいくマスターに警戒など不要だ。
当然のことを他意なく伝える俺に、マスターは一瞬虚をつかれたような顔をしたあと、何故か嬉しそうに微笑を浮かべて自らもデッキへと出てきた。

「結構うまく気配を消していたと思ったんですけどねぇ…。まぁ、さすがに僕みたいな普通のおじさんには、現役の殺し屋は騙せませんね」
「誰が普通のおじさんだよ…。シェイカーならともかく、アンタみたいにニコニコ笑いながら銃を平気で操るのが世の中で言う゛普通のおじさん″なら、世の中はとっく荒廃して終わってる」
「いやですねぇ。それじゃあまるで僕が危ない人みたいじゃないですか。前にも言いましたが銃の収集は、いわば趣味みたいなものです。実際、使用することは殆どありませんしね。鑑賞用にすぎません。ですから、僕は至って普通のおじさんですよ」

モデルガンならともかく、本物を所持―――それも生産中止になってしまった骨董品クラスの物まで所持している時点で、もはや趣味の領域を十二分に越えているのに、よく言う。
まぁ確かに、表ではバーのマスターとして生計をたて、だがその一方で、マフィアや警察でさえ入手困難な情報を易々と入手する゛教授″らしい趣味であることは否定はしないが。
飄々と言ってのけるマスターに呆れたため息をついていると、ふわりと風が吹き、マスターが愛用しているシャンプーの香りがJJの鼻腔をくすぐった。品のある、香りのキツ過ぎない柔らかなそれは嫌いではない。
一番風呂を堪能したマスターのロマンスグレーの柔らかな髪はまだドライヤーをかけていないらしく、生乾きの髪から垂れた滴が数滴バスローブに吸い込まれていったのを、俺は見るとはなしに目でおった。

「湯加減は、大丈夫だったか?適当にしか整えてなかったんだが…」
「ええ、とてもいい湯加減でしたよ」
「そうか。ならよかった。でもせっかく温もったのに、そんな薄着で外に出たら風邪ひくぞ?」

デッキへ出てきた時点で気になっていたのだが、たった今まで風呂に入っていたマスターはバスローブ一枚という出で立ちだった。俺もシャツ一枚という薄着で夜気に嬲られて少しばかり肌寒さを覚えていたところなので、マスターが体調を崩さないか不安になった。

「アンタももう若くないんだ。もう少し自分の体を労ってやれよ」
「少しなら大丈夫ですよ。ゆっくりと温もったから暑いくらいですしね。熱を冷ますにはちょうどいい」

心配してくれて有難うと、目元をなごませにこやかに笑うマスターに、俺は素直に頷かないまでも口の端を少し上げて答えた。
シャワーだけでなく、浴槽に浸かるのが好きなマスターのために、湯を沸かすのが俺の最近の日課になっていた。
マスターは食事や洗濯や、生活の一切を自分で賄える強者で、放っておくと一人で何でもやってしまう。
二人で生活しているのだから頼りっぱなしというのも性にあわず、なるべくできることは率先してやろうと取り組んでいたことの一つがこれだ。
基本シャワーしか浴びない俺は、湯加減を見ることすらままならず、極端に温かったり、またその逆もあったりしたのだが、試行錯誤と研究を重ねた結果、随分とましになった。
適当だと言ってはみたが、今日の温度は完璧だという自負があっただけに、やはり嬉しい。
ちっぽけなことで心を踊らせているガキみたいな自分に苦笑しそうになるが、相手はマスターだ。経験豊富な彼から見れば俺は充分子供の分類に入るらしいので、いまさら気にしたところではじまらない。

「最近、よく独りで外を眺めていますね」
「そうか?そんなことはないと思うが」
「いいえ。ふらーっといなくなったと思ったら君は大抵、デッキに出て遠くを眺めてますよ」

そんなことはないだろうと思いながら、また黙って海を眺めているとマスターが俺の手に指を重ねてきて、優しく握りしめられた。
何だろうと、ゆっくりと横を見やれば、口では沈黙を貫いているマスターの視線が俺になにかを訴えていた。

「…マスター?どうかしたか?」
「なんだか、ちょっと君が遠く感じてしまったものですから」
「遠くって……真横にいるだろ。手だって届く位置だぞ?」
「分かってますよ。君は僕のそばにいる。でも――君の心が遠くに行っている気がして、寂しくなったんです」

切なく響くマスターの声音に、何て言えばいいのか分からず沈黙した。
平素、穏やかで柔らかな雰囲気を称えているマスターの、どこか憂いを帯びたその切なげな表情に、何と声をかけていいのか分からなくなる。
マスターが俺の手を今度はそっと壊れ物でも扱うように両手で包み込むように触れた。

「ねぇ、JJ? 無理に話してくれとはいいません。人は誰でも他人に言いたくないことをひとつや二つ持ち合わせているものです。でも――ね、叶うなら、ワガママを言わせてもらえるなら、僕も君と同じ景色が見たい。こんなに君のそばにいるのに……君の温もりをこんなに近くで感じることが出来るのに、心はふれ合えないまま置き去りなんて、やっぱり寂しいです…」

繋いだ手に力を込められてギュッと握られる。
まるで俺がどこかへ消えてしまわないように繋ぎ止めておくかのような仕種だった。

「心配性だな、アンタは」
「君のことになると僕は、どうしても臆病になるんですよ…。君は命よりも大切な存在ですからね」

うわべだけではなく、本当に心から俺の事を想ってくれている。そう知っているからこその臆病さに、俺の胸は仄かに暖かくなる。
安心させてやりたい。笑顔でいてほしい。そう思うのだが、俺のせいでまたマスターが愁えるのは正直あまり気分が良くない。俺の抱えているものを打ち明ければ、きっとこの人は顔を曇らせてしまう。出来ることなら話したくはなくて、迷った俺はため息をついた。

「大したことじゃないんだ。それに、
上手く説明できる自信がない」
「構いませんよ。僕はね、君のことならどんな些細なことでも、できるだけ知りたいです」
「聞いても、つまらないと思うぞ」
「つまらなくなんてありませんよ」

ふふ……っと、何もかも受け入れますという顔で微笑まれてしまえば、もうはぐらかす気も失せてしまう。
耳に心地いいマスターの優しい声音と、慈愛に満ちた眼差しが、俺の心を揺さぶる。

「たまに、考えるんだ。俺はちゃんとけじめをつけられたんだろうかって、な」
「それは…梓くんのこと、ですか?」

誰のことだと名を出さずとも悟ってくれるマスターに俺は静かにうなずき、遠くへと視線を投げた。海は真っ暗で、何がどこにあるのか判然としない。が、なにもない訳じゃない。
黒一色に塗りつぶされた世界には、眼に見えないだけで、そこに存在するものが沢山ある。

「アンタには、まだちゃんと話してなかったよな。アイツと俺が何で同居をすることになったのか……」
「ええ。いつだったか、バーに飲みにきた君の雰囲気がいつもと違っていて。時計を見てそわそわしていたので、もしかして誰かが君の帰りを待っているんですかと質問した時に、君が教えてくれたんでしたっけね。同居人が出来たと。君ときたら、まるで猫でも拾ってきみたいな感じで言うものですから、僕は内心で苦笑したのを覚えてますよ」
「……そう、だったか?まぁ、実際、アイツは猫みたいなもんだったしな」
「おやおや。ここに梓くんがいたら怒られてますよ?」
「だろうな。ま、怒るくらいなら可愛いものだ。梓は同居人である前に、復讐者だしな。アイツに怒られようが殺されようが、俺は文句を言える立場じゃない」

復讐者と言う不穏な言葉に、マスターはすうっと瞳を細めた。
「復讐者、というのは……なんと言うか、梓くんのイメージからはずいぶんとかけ離れた印象ですね……」
「あぁ、俺もそう思う。アイツには似合わない。だが、俺が梓をそうさせたんだ」

ふと瞼を閉じればすぐに、五年前の……愛国ホテルでの記憶が昨日のことのようによみがえる。過去と言うには鮮明すぎるほど鮮やかな記憶が。
多分、俺にとってあのときの事はまだ過去にすることすら出来きないままでいるのだ。

それぞれの道を生きていく決意をした俺と梓。今さら過去の話を誰かにするはめになるとは思っていなかっただけに、何とも言えない気分になってくる。
本当にどこから話せばいいか分からなくなってきたが、俺は取り合えず手短に、だが、要点を押さえながら梓との関係をかいつまんでマスターに話すことにした。

面白い話ではない。
こうして、マスターに話している俺ですら重苦しい気分になってくる。
五年前の話をするとなると、キングシーザーの名を伏せて話を進めることは困難で、俺の過去に、かつてマスターが所属していた組織が関わっていた事を話さざるを得なくなるのも、俺にとってはあまり歓迎できない事態だった。
キングシーザーの名を口にする間際、僅かな戸惑いが生じ、俺の声が不自然に掠れた。
覚悟を決めて全てを語ることを決意したくせに動揺を完全には隠せなかったが、マスターはキングシーザーの名を耳にしても顔色を変えることはなかった。時折、相槌をうちながら、真摯に耳を傾けてくれていたから、俺はどうにか平静を保ちながら話すことができた。

打ち明けると決めた以上、中途半端に話すほうが誤解を生むし、マスターには俺の事を知ってもらいたいという気持ちがあった。
今まで誰にも話したことのない話だ。態度は変わらないように見えるが、マスターが本心では俺たちの関係をどう思うのかは俺には推測すらできない。
怒るかもしれないし、軽蔑するかもしれない。
何と罵倒されようが叱責されようが、俺にはそう言われても仕方がない行いをしてきたという自覚があるので、逃げずに受け止めようと覚悟を決めたが、さすがに…歪な関係である俺と梓の間に、肉体関係があったことは伏せておいた。が、それすらもこの人のことだから推察しているかもしれない。
試しにちらりと横目でマスターの表情を伺ってみたが、先程と同様、その平素と変わらぬ明朗さの漂う顔からは彼が何を考えているかは伺い知ることはできなかった。

「……本来、俺たちの運命は交わることなんてなかったはずだ。だが、俺たちはそうして出会ったんだ」

反応を気にしながらもすべてを話し終え、俺は初めて客観的に当時の情景を顧みることができたような気がした。あちこちに散乱していた過去の出来事が、ようやくちゃんとひとつの形を成したとでも言うのだろうか。不思議な感覚だった。
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