オメルタ▲豹と狼

□mariage
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進めば進むほど街灯の数が明らかに減っていく薄暗い道を、二つの影が風を切る勢いで突っ走っていく。
肩にほんのり触れる少し癖のある艶やかな髪を疾走と共に靡かせて、端正な顔立ちのなかで一際目を引く切れ長の瞳を鋭利に光らせ、JJは神経を研ぎ澄ます。
背後に迫る気配に気を配る俺の横で橘陽司もまた、時おり相棒の様子を伺いながら歩調を合わせて並走していた。
歴史を感じさせる古びた建物が並ぶ路地裏を、後から迫る足音から奴らとの距離を正確に把握しながら自らは極力気配を殺して闇夜を駆ける。
「JJ、次、右にいくで――」
頷く間も惜しむかのように、俺は指示に従うべく右へと進路を変じた。
東京湾岸付近はもちろん、龍宮界隈の道筋ならそれこそネズミもかくやというほど知り尽くしているから目をつむっていても走れる自信が俺達にはあるが、流石にここでは無意味な知識だ。
橘もはじめて足を踏み入れた路地で土地勘がないのは俺と同じだったが、橘の侮りがたい野生のカンというやつに不思議となんの躊躇もなく従っていく。
曲がり角に差し掛かる度に次はどちらへいくべきかと、少しの間に風の流れや嗅覚を便りに橘が進行方向を決めては足を止めることなく二人分の足音が息もぴったりと走り抜ける。
今のところ橘の選択肢に間違いはなく、運良く袋小路に追い詰められるという事態は免れているが、それもどこまで持つかは分からない。
(やれやれ、食後の運動にしては些かハードだな…)
様々な不足の事態とやらに遭遇してきた俺でも、流石に今回ばかりは予想外すぎる事態に、うんざりとため息をついた。
まさかタイまで来てこんな事態に巻き込まれることになるなど、夢にも思わなかったし、想像すらしなかった。
ほんの少し前までは、俺たちは初めての海外旅行を存分に楽しんでいたはずだ。地元の料理を十分に堪能し、一般的に観光名所とされる場所を見て回った。日が傾き始めてからは、タイを出てカジノへと足を伸ばし、橘程ではないが俺も少なからず興を楽しんできたわけだが……何がどうなったのか、俺たちは今や汗だくになりながら必死で走っているわけだ。
町に溢れていた若者たちの気配は幻であったかのように跡形もなく、今や息急ききらして走る俺たちに不振な目を向けるものはおろか、擦れ違う人すらろくにいない。
見上げた先にある夜空は、天候のせいか雲がかかっていて今にも泣き出しそうな曇天だった。
また次の曲がり角を曲がる。背後で俺たちをおう影がチラリと視界の端に捉えた。捲いたかと思っても、やはりしぶとく追い付いてくる。
カジノの、恐らくは“裏方”である数人の男たちはいかにもな黒いスーツを着用していながら、なかなか切れのいい走りをしている。それでも、半数以上は上手く捲けたが、しぶとい奴らは数を減らしながらも懸命に追い縋ってくる。
「やれやれ、日本ならまだしも、海外に来てまであんなのに追いかけられるなんて、俺もとことんついてないな……」
「確かになぁ。せっかくカジノを思う存分満喫しとったのに。綺麗なおねぇちゃんに追いかけられるんならまだしも、オッサンに追いかけられても嬉しくもなんともないわ。むしろ迷惑や!」
「言ってろ、馬鹿…。ところで、一応聞いておくが、おまえ、まさか本当にイカサマなんかしてないだろうな?」
「はぁ?!何言うてんの!JJも側で見てたやろ。大勢のギャラリー背負って俺がルーレットでボロ勝ちするとこ。カードゲームならまだしも、ルーレットでプレイヤーがイカサマする手なんかあるわけ無いやろ。ディーラー買収したんなら話は別やけどな」
「じゃあ、俺の目を盗んで買収したんだろ。じゃなきゃお前があそこまで景気良く勝つなんてあり得ないからな」
競馬をやらせれば財布がからになるまでつぎ込んだあげくに、全部馬のエサ代にして帰るなど日常茶飯事だと知っているだけに、今夜の異常なほどの勝ちっぷりにやはり、疑念を抱く。橘がボロ負けするのを想定していただけに腑に落ちない。絶対になにか裏があると言いたげな俺の視線に、橘は速攻で否定してくる。
「ひっどー!!全うに稼いだのに、マジで陽ちゃん泣くで!!日本におる勝利の女神とはここんとこ相性が悪かったけど、こっちの女神は俺の溢れんばかりの魅力に思わず微笑んでくれたんやで!!間違いない!!」
「いや、ギャンブルで稼いだカネは全うとは言わないと思うぞ。――なんにせよ、お前といるとろくな目に遭わないのは国境を越えても変わらないらしいな」
「違うで、JJ。変わらんのはお前を愛しとるっちゅう俺の気持ちや」
今にも俺に対する愛情を惜しみ無く伝えようと飛びかからんばかりの勢いの橘から然り気無く距離をとる。
何をのんきなことを言ってるんだと怒鳴り返してやりたい気持ちにかられながらも、余計な体力は使いたくないと真横で並走する橘を睨むだけに留めた。
貴重品をポケットに忍ばせているだけの俺とは違い橘の方はというと、いかにも重たげなジュラルミンケースを小脇に抱えている。
本日の戦利品である換金したばかりの札束が入ったそれこそが、やつらの狙いだ。イカサマをしたと奴らは信じこんでいるからこそ、こいつを取り返すまでは地の果てまで追ってくるつもりなのだろう。
勘違いでこんな目に遭わされる身としてはたまったものではない。
パーンっと、背後で聞き慣れた発砲音が夜の帳を切り裂く様に唸り声を上げた。
俺たちを追って来る連中は、人気がなくなったと同時に、躊躇なく懐に忍ばせた銃で打ち込んで来るが、幸いなことに狙いが甘い。実践経験では明らかに自分達の方が勝っているのは明白だ。
「弾の無駄遣いだな。走りながらとはいえ、狙いが雑すぎる」
「そやなぁ。体格はええから、肉体戦ならヤバイけど、銃なら俺らのが数倍上やな。とはいえ、このままやと埒があかんで。体力勝負でも負けん自信はあるけど、向こうは拳銃所持しとるし、方やこっちは丸腰や。検問さえなかったら、今頃あいつら全員お留守番中の俺の愛銃で風穴開けたるところやで!」
「物騒なことを言うな。……で、どうするつもりだ?銃を奪って応戦でもするつもりか?」
「さすがにそんな無謀なことは俺やってせんし」
橘と言い合っている最中に背後からバンッと、聞き慣れた銃声と共に男たちが何事か口汚くわめき散らす声が聞こえてきた。
互いの姿は捉えられない位置にいることから、威嚇しただけらしいが、生憎と銃声を聞き慣れた俺達には怯んで足が止まるなどと言う事はない。
残念ながらなんと叫んでいるのか日本語くらいしかまともにわからない俺達にはさっぱりだったが、おそらく、止まらなければ撃ち殺すぞと脅し文句のひとつでも吐き散らしているのだろう。ヤル気満々で言われたところで誰が従うのだと、こんなときだというのにあきれを通り越して笑いが出てくる。
確実に撃ち殺されるか、そうでなくても無事ではすまないと容易にわかる状況なのだ。ここで止まるとすれば怖いもの見たさのアホか命知らずな馬鹿だけだ。
「ん?雨、か?」
ぽつんっと、俺の頬に冷たい感触が伝う。空から落ちてきた滴は一つ、また一つと俺や橘の身体にポツポツと降ってくる。やむ気配は、ない。むしろこれから本格的に振りだすであろうことは、想像に難くない。
橘が分厚い雲が蔓延る空を見上げて嫌そうに呻いた。
「降ってきよったで。まったく、ついてないなぁ。この日のために新調した服が台無しになってしまうやん」
「俺も、追いかけられた上に、濡れ鼠になるのは勘弁してもらいたいところだな。荷物は全部ホテルだが、着替えを取りに戻れるとは思えないし」
「雨やから帰りましょって、帰ってくれるわけはないやろなぁ〜」
ためしにチラリと後方を伺うが、やはりやつらの足音は途絶えることを知らないらしい。しつこいと言うか、はた迷惑と言うか。イカサマで稼いだならまだしも、橘の言うようにまっとうに稼いだのに追われている身としては、そのどちらも正解だが。
「取り合えず、どっかに身を潜めるしかないやろな」
「どっかって、どこだよ」
「それは俺が考えるから、JJは俺から離れんと、ちゃんと着いてきてや!」
橘は俺を一目見てニコッと笑い一歩前に出ると、再び背を向けて走り出した。一度も振り返ることなく背中を俺に預けて、ただひたすらに身を隠せそうな場所を探しているようだ。
他に気をとられていて警戒心のない無防備な背中。
なんの疑いもなく俺に全てを委ねている橘と、そしてそれと同じく橘を信じてついていく自分。ここ最近では当たり前になっていた構図に、らしくない感慨を覚える。
こういう関係は嫌いじゃ無いなと、無駄に自信に満ちた橘の背中を託された俺は口許にうっすらと笑みを浮かべ、背後を警戒しながらやはり無言で走った――。
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