帆船記U
□月暈
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月の周囲に光輪ができていた。夜空に巻層雲が広がっている証拠。
誰もいない見張り台に上ったシンが、眼帯を外して夜空に目を凝らし、広がる巻層雲の流れを見極める。
巻層雲の流れる根本には、前線や低気圧が有る。
雲の流れに逆らって我が進むことは、悪天候へ向けて進むことに他ならない。
我は雨を嫌う航海士が繰る海賊船の精霊、シリウス。
前線程度ならともかく、低気圧は確実に嵐だ。我も遠慮したい。
昼間でもその流れを見ることは難しい。まして、夜では、至難の業である。
「まずいな…雲の流れに逆らって進んでいるか…」
眼帯を元通りにしたシンが、操舵甲板へ移動する。
雲の流れに沿うよう、帆の向きを微妙に変え、舵をきって針路を180度転回させていく。
「これで、到着予定は大幅遅れだな…」
少し残念そうに呟いて、月の光輪を見上げる。
「うわぁ、月が神様みたいー」
嬉しげにはしゃぐヒロインの声が甲板に響いた。
『シンには不吉の予兆だが、ヒロインには幻想的な光景か…』
我がシンの横で、届かぬ声で呟くと、シンが笑みを浮かべる。
「神様、か…」
確かに、月暈と呼ばれるこの光景は、国によって、天使の輪を盗んだ月、と呼ぶこともある。
更に、神の祝福の月、と呼ぶ地方では、嫉んだ風と雨が祝福を奪いに月を追いかける、という話もある。
「シンさん、シンさんっ。今日の月、すごく神秘的ですねっ」
跳ねるようにシンのもとへ寄ったヒロインは、傍目にも懐いている小動物のようで可愛らしい。シンが苦笑した。
「なんだ? キスでもして欲しくなったか?」
「そ、そんなこと言ってませんっ。ただ、月が…」
シンは舵輪を固定して操舵甲板を下りる。
「あ、待って下さいっ。何処へ行くんですか?」
慌てて、当たり前のようにシンの後を追うヒロインに、シンの想いが溢れる。
「なんだ。やっぱりキスして欲しいのか? そうならそうと、はっきり言え」
我は、笑みがこみ上げる。
相変わらず、この航海士は、周囲へ溢れさせる想いとはそぐわぬ言葉ばかり言う。
「ち、違います。何処へ行くのか聞いただけで…」
だから、ほら。鈍いヒロインは想いを汲めない。
『キスをしたいのはお前の方だろう?』
「…俺が何処へ行くか知ってどうする?」
「どうするって…」
困ったように立ち止まってシンを見上げたヒロインの唇に、そっと狙っていたシンの唇が触れた。
「クク…。モノ欲しそうな顔。…嵐を避けるために航路を大幅に変更するからな。船長と話しに行くだけだ」
『欲しがっているのも、お前の方だろう?』
我を操る航海士は、あれほど素直な想いを溢れさせながら、異なる言葉ばかりを紡ぐ。
「後で相手してやる。はしゃいで船から落ちるなよ」
船長室へ入っていくシンと、取り残されたヒロイン。
「……あれ? もしかしてキスしたかった…、シンさん?」
『ようやく想いを汲めたか……』
かなり遅いが。
我は、嵐に背を向けて、夜の海を進む。甲板に溢れた愛しい想いを抱えながら。