帆船記V
□立春
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温かな海を我はゆったりと進んでいた。
我は海賊船に宿る精霊、シリウス。
「2月なのにこんなに暖かいと、なんだか変な感じですね…」
ヒロインが腕まくりをして洗濯をしながら、傍らでトリム作業をしているシンに言った。
「赤道に近いからな…。ヤマトはそうか…2月は冬か」
「はい。まだまだ、雪が降る季節です。あ、でも、節分が終わった後だから、暦の上では春になるのかな?」
シンの操作によって我は、帆にいっぱいの風を受け、船足を速める。
『これなら、予定通り夕方にはヴァルツ港に着くな…』
人間の彼らには届くはずもない精霊の声。
けれど、満足げに笑みを浮かべたシンに、我は気分よく波間を駆ける。
「…ヤマトの暦では、今日が立春だったな」
「あ、そっかー。もう立春なんだぁ…よくわかりますね、シンさん」
シンが立春という言葉を知っていることには、疑問すら抱かないヒロイン。
「ヤマトの24節気の考え方は、黄道360度を24で割るという、非常にわかりやすい基準に基づくからな。航海で天体を観察していれば、嫌でも理解できる」
「へー。そうなんですか。黄道を割る?」
眉間にしわを寄せて考えはじめたヒロインの頭を軽く小突いて、シンが苦笑した。
「太陽の通り道が、黄道だ。どうせ口で仕組みを説明しても、おまえじゃ理解できないだろう。あとで航海室へ来い。わかりやすい図で、説明してやる」
「あ、はい。じゃあ、洗濯を干し終えたら行きますね」
シンは何か思いついたように、甲板を横切り、船倉へ向かう。
船倉では、寄港する時の買い出し準備のため、ナギとトワが食料の確認をしている。
「ナギ、今日の昼飯は何だ?」
船倉に入るなり尋ねたシンを、ナギは意外そうに見返した。
「シンさんが昼食のメニューを聞くなんて、珍しいですね」
トワが、樽の向こうから、これまた意外そうに顔をのぞかせる。
「野菜炒めと肉の味付け焼きの予定だが、何かリクエストあるのか?」
「あぁ、そのメニューなら、ちょうどいい。何年か前に大陸の店で食べたチュンビン、覚えているよな?」
『ちゅんぴん?』
我はその料理を知らない。ということは、ナギが船上で作ったことはない料理のはずだが。
「…ああ…アヒルの皮のようにしたアレか?」
しばし考えたナギの答えに、シンが頷く。
「そうだ。今日はヤマトの暦で立春。あれを食べる日だ。といっても、北の大陸での風習だからヒロインも知らないが。せっかくだから食わせてやるのも面白いと思ってな」
「確かに、アレなら予定のメニューでいけるな……。トワ、そこの小麦粉を厨房へ運んでこい。シン、昼の手伝いは来なくていいと、ヒロインに伝言だ」
シンの意図を察して同意したらしいナギを見て、シンは頷き、黙って甲板へ戻っていく。
『小麦粉を使う料理なのか…』
我は、興味津々で船倉に留まった。
トワが、我同様に興味を持ったようで、早速ナギに質問する。
「あのー、シンさんの言っていたチュンビンって、どんな食べ物ですか?」
「ガレットに近い食べ物だな」
「がれっと…ですか?」
トワに意味が伝わっていないことに気づいたナギが、苦笑した。
「主食にする、甘くないクレープみたいな食い物だ。中華料理を包んで食べるのが、一番美味い。春餅とも言うそうだ」
なんとなく料理がイメージできた様子のトワが、昼が楽しみだとはりきり始める。
シンとナギも、昼を楽しみに感じているようだ。
いや、二人の場合は、昼食を前にしたヒロインの反応が、たのしみなのだろう。
海賊達の同調する想いは、彼等を内包する我にも影響する。
何か待ち遠しく波を駆け上がり、駆け滑る我。
「なんだか、船が嬉しそうだな…」
船長室から出てきたリュウガの髪が、風に大きく靡く。
「快走中ですから」
機嫌よさそうに答えたシンをみて、リュウガも穏やかに微笑した。