帆船記V
□芒種
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「ナギさん、『のぎ』って何でしょうか」
不思議そうに尋ねたヒロインを、調理中のナギがちらりと見た。
「のぎ?」
『のぎ…?』
我もまた、初めて聞く単語に、何のことだろうと考えを巡らせる。
昨夜、ヒロインが読んでいたのは、穀物の種類について書かれていた本。
シンではなくてナギに尋ねているあたり、食材に関係する言葉なのだろうか。
といっても、我の知る限り、ヒロインはシンに尋ねた方がいいようなことまでナギに聞くことがよくある。
我は、彼らが乗っている海賊船の精霊、シリウス。
船内での出来事の全ては把握しているが、さすがに彼らの思考を知ることはできない。
視線を調理中の手元に落としたまま、考え込んでいるのか、黙ったままのナギ。
「…どこで聞いた?」
口を開いたナギは、答えではなく問いを言葉にした。
「えっとですね、昨日、穀物について書いてある本を見てて、あ、トウモロコシって穀物だったんですね、私、野菜だと思ってました。あと、豆も穀物になっていて、お味噌やお醤油が、穀物から作る発酵調味料の一種だって言うのも結構びっくりだったというか…」
我が聞いていても、どうもヒロインの説明は論点がズレていくような気がするが、ナギは黙ってヒロインの話を聞いている。
「酢やお酒も、穀物の発酵する力を利用して作られていたんですね。意外だったのは、発酵させた穀物はお肌にもいいってあって、いろんな穀物をブレンドして発酵させたエキスを化粧品として使えば、いつまでも若々しくいられるみたいです。でも、発酵させたものって例を見ると、酢とか納豆とか麹とか…なんていうか、化粧品として使うには、匂いがきになりそうなものばかりで…」
「………」
ナギは、やはり黙ってヒロインの話を聞いている。
「いくらお肌に良くても、あまり匂いがきついと、ちょっと使う気にはならないですよね」
ヒロインの話が、一区切れつく。
やはり論点が変わってしまっていたが、ナギはあえて話題を戻す気はないらしい。
「そのニンジン、もう少し厚めに切れ」
「あ、はい。前も話しましたっけ? 弟がニンジン苦手で、どうしても小さく薄めに切りたくなっちゃうんですよね。そういえば、シンさんの苦手な食べ物って何だろ…」
二人の会話は、調理の指示や他の海賊達が苦手としている食材についての話に移ってしまっている。
『のぎ、というのは結局何だ?』
精霊である我の言葉は、人間には届かない。
その後も、話題が戻ることは無く、朝食の時間になった。
いつか、海賊達が話題にする時を待つしかないらしい。
我は、秘かな溜息をついて、海賊達を見守った。
その日の夜、しおりが挟まれた本を開いたヒロインが、あーっと、大きな声をあげた。
「何事だ?」
シンが眉をしかめる。
「朝、ナギさんに答え聞くの、忘れてたぁ…」
「ナギの答え?」
わずかにシンの声に険が含まれたのだが、ヒロインは気付いた様子もなく言葉を続ける。
「昨日読んでて判らなくて、ナギさんに『のぎ』って何なのか、聞こうと思ったんです。アレ? 聞いたよね、私……。アレ?」
なぜ答えを得られなかったのか、ヒロイン自身が分かっていないようだ。
「また明日聞いてみなきゃ…」
ヒロインの呟きに、穏やかではない気配を纏ったシンが近寄り、手にしている本を抜き取った。
「あっ。シンさんっ?」
並ぶ文字にさっと目を通したシンの口元に、笑みが浮かぶ。
「ああ…芒のことか。この図で説明してやる。見てみろ」
シンが、別のページにある大麦の挿絵をヒロインに示す。
我もまた、ヒロインの横から、シンの指す図を覗き込んだ。
「ここの部分を、ノギ、芒と呼ぶ」
大麦の穂の、針のように尖った毛の部分。
『ほう…植物の部分名だったか…』
比較的早く疑問が解決して気分が軽くなる。
我は、すっきりした気分で、星が一つ尾を引くように流れた空を見上げた。