帆船記W
□唐棣色
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船室へ通じる通路で、ハヤテが、息を飲んで立ち尽くした。
『間の悪いことだ…』
一応、警告はしたが、基本的に我の言葉は人に聞こえない。
命の危険にかかわるような我の警告は、ハヤテに伝わることもあるのだが…。
我は船の精霊、シリウス。
人には見えず聞こえず触れられない存在。
通路では、いや、正確にはシンの部屋の扉前なのだが、恋人達が仲直りのキスを交わしている最中である。
ことの経緯は、昨日まで遡るから少々ややこしい。
どちらかといえば、ヒロインがシンに捕えられてキスされているといった状況だ。
ハヤテが来て立ち止ったのはシンも判ったはずだが、それで離れるようなことはしないだろう。
いや、おそらくは、あえて見せつけるようなことを……という我の予想通り、シンはヒロインの髪に指を差し込んで更に深く密着した。
「…っん……ふぅ」
少し苦しそうな、ヒロインの声が漏れる。
『……どうした?』
ハヤテは立ち尽くしたまま、自分の部屋の扉へ進むことも、背後の扉を開けて甲板に戻ることもしない。
『……ああ、動けないのか…』
以前、ソウシとリュウガが二人で話していたが、シンに可愛がられているヒロインの姿や声は、時折、身が竦むほどドキリとさせる何かがあるらしい。
我にはその感覚がよくわからないが、おそらく今のハヤテが、そうなのだろう。
もっとも、我の場合は、もっと色香のある肌全体が朱華に染まったヒロインを知っている。
「…んふっ……はぁ…」
ようやくシンから解放されたヒロインが、肌を上気させ、息を荒くしたまま、ぺたんと扉の前に座り込んだ。
「…シン、おまぇっ…」
そこでようやく、ハヤテが声を発する。
「何の用だ?」
何事もなかったように、平常の表情と声で振り返って応じたシンに、ハヤテは我が予想しなかった言葉を投げつけた。
「お前のキス、エロすぎだろっ」
「…え?」
驚いたように、ヒロインがハヤテを見上げる。
シンも一瞬、呆気にとられたようだったが、すぐにニヤリと笑ってハヤテを見返した。
「エロくないキスなんか、する価値もねぇな」
「なっ……」
ハヤテが返す言葉に詰まる。
「キスの下手な男は、女にすぐ飽きられるぞ。何ならエロいキスを教えてやろうか?」
笑みを浮かべたシンが、立ち尽くすハヤテに歩み寄り、すっと手をハヤテの頬に伸ばした。
「っ。ざけんなっ…」
慌てたようにハヤテはシンの手を払いのけ、甲板へ逃げるように去る。
通路では、ひどく愉しそうにシンが笑っているが、甲板をズカズカと船首に向かって歩くハヤテは耳まで赤い。
『思ったことが、そのままつい言葉になってしまった、といったところか?』
海からの心地よい風に吹かれて、ハヤテの髪が揺れる。
「くそっ…」
ハヤテが悔しがっているのは、何に対してなのだろう。
悔しく思うことで、彼ら人間は様々な面でより強くなっていくことを、我は見て知っている。
『いい風だな…』
我は船首の更に先に伸びたバウスプリットに立って、風を浴びた。