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□sink(A)
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50話if




だいすきだよ、櫂くん。

うっとりと、声は高くまた低く。
波のような抑揚で、櫂の意識を乱す。

聴覚が読み取る感情は、ひとつ、
……執着。

そんなものは愛ではないなと切り捨てた所で、押さえつける手は緩みはしないのだ。


アイチは櫂の手を引いて、裏ファイトの闘技場を後にした。
ギャラリーが声をかけてきたけれど、すべて邪険に振り払って、二人きりになる。
もとより愛しい櫂以外、誰一人として、アイチの目には入らない。

ほら見て御覧、僕の方が強い!

勝ち誇ったアイチに、櫂は言葉を失って。
うなだれたまま、言うなりになっていた。

「すまない、」

声が掠れて、短い言葉さえも風の巻く音に消える。

「どうして謝るの、櫂くん。これできみは僕のものになるのに!」

アイチはその眸に、渦巻く湖面のようなPSYクオリアの力を顕現させたまま、高らかに嗤う。
不案内なはずの裏通りを、わかったふうな足取りで進んだ。

一際狭い路地は、通路というより隙間である。
古い雑居ビルの壁と壁の間に、人ひとりがようやく通れる程の細長い空間が開けているのだ。

人通りはない。
気配もない。
しん、と異常な静寂の中で、アイチは足を止めて櫂を振り返った。

「ねぇ、どうやって抱かれたい?」

前髪が額にかかって、未だ幼い目元を隠す。
身長差のある櫂を見上げた時、流れた蒼い髪の向こうから覗いた眸は、既に欲望の萌芽をちらつかせている。
白い頬が上気して、視線が絡むと、恥じらうように瞼を伏せた。

「櫂くんの初めてが欲しい。……けれど、レンさんと付き合っていた時に、もう処女はあげちゃったんだよね?……あれから一年以上経つから、初めてみたいにきつくなっているといいな」

あけすけな物言いに、櫂は眉をひそめて目を閉じた。

こんなふうに。
変わって、しまうのか。
すべてが。
手の中から、零れ落ちて。

「レン、」

……あの日のように。

短く口にしたその名に、アイチはしかし過剰に反応した。

「なに言ってるの櫂くん。僕がきみに勝ったんだ!僕がきみを抱くんだよ……狂うほど悦くして、レンさんのことなんて、忘れさせてあげる」

爪先立って、唇を合わせる。
短く触れあうだけで昂るのか、呼吸を荒げて。
一度離すと、蒼白いままの櫂の頬を愛しげに両手で挟んで、撫でた。

「綺麗……」

いっぱいかけてあげるね、きれいな櫂くんをどろどろに汚してあげる。
ねぇ、レンさんにもされたことがないくらい、ひどいことしようか。

再び唇を合わせた時には、ぞろりと舌が歯列をなぞった。
下唇に舌先を這わせ、上唇の裏に差し入れ、並びのよい歯を一本一本確かめるみたいに辿って、ようやく、その奥へと進む。
抵抗を示さない代わりに、反応もしない櫂の舌縁を掬って、その下に入り込んだ。

「吸ってよ、」

「断る」

「ふぅん。突っ込んで掻き混ぜてあんあん言い出したら、その時にはちゃんとキスするからね」

アイチは櫂の手を引くと、再び迷いもなく歩き始めた。
灰色の路地を縫って、陽の当らない公園に出る。
品よくは決して見えぬ若者が所々に固まって、煙草を吸ったり酒を呑んだりと好き勝手に過ごしていた。
林とまではいかない、疎らな植え込みの向こうに、薄汚い公衆トイレの建物が見えると、アイチは迷いもなく其処へと進む。

個室に櫂の身体を押し込んで、自らの背で扉を閉める。

「ね?二度目の処女喪失が、こんな汚いトイレでなんて、忘れられなくって素敵でしょう?」

小柄なアイチは立ったまま、洋式便座の上に座らせた櫂に、ねっとりとキスを落とした。
唾液をたっぷりと注ぎ込むと、応える気もない櫂の唇の端から、尖った顎に向けて、透明な滴が一筋そして二筋。
ぴちゃぴちゃと、それでも触れあう粘膜が水音をたてる。

「ああ、櫂くんだ。僕、今、櫂くんにキスしてるんだ……」

うっとりと頬を染めて。
小さな口の周りを、唾液でぬらぬらと汚して。
アイチは興奮を隠しもせずに、言った。

「こんなやり方で嬉しいのか」

櫂の眸が、ひどく冷静に、ひたと揺れる蒼瞳を捉える。

「嬉しいよ。嬉しいに決まっているさ!きみにはわからないだろうね。いつも正しいきみには、決してね!」

あはは、と高らかに。
常軌を逸した声で、アイチは嗤った。

だって櫂くんが僕のものになるんだ……。

一転。
潤んだ声は囁きのようにひくく。
櫂の耳へと、毒素にも似て注ぎ込まれる。

アイチの顔が。
アイチの声が。
アイチの指が。
アイチの髪が。
アイチの膚が。

櫂の目には、すべてがつくり変えられてしまったように見えた。

同じ顔なのに。
同じ声なのに。
同じ指なのに。
同じ髪なのに。
同じ膚なのに。

ずっと見てきたから、よく知っているはずなのに。

見上げると蒼い目が、海のように、深い。

「あいしてる櫂くん」

シャツのボタンが弾け飛んだ。

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