Works
□close to the night
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*Opening
「……僕には、他になにもないです」
櫂の記憶の中で、あの頃の景色はいつも灰色がかって、常に曇天を背にしていたように思う。
中学二年の冬だったろうか。
レンは短く言った。
笑っていた。
けれどその笑みは、いつものレンのそれではなかった。
嬉しい、楽しい、幸せ、という素直な意味以外で、レンが笑うのを、櫂は初めて見た。
表情の底に流れる思いは、諦念だったろうか。
普段通りに目の前に居るレンを、どうしてか酷く遠く感じた。
伸ばされた腕を振り解くことが出来なかったのは、そうする他に寄り添う術を知らなかったからだ。
「何もないなんて言うな。レン、……俺が、居る。ここに、」
上手な言葉の遣い方も知らなかった。
ただ朴訥に、率直に。
思いのたけを口にするしか、出来ない。
「言葉ではだめなんだ」
レンは、やはり、笑っていた。
困ったようにも、悟っているようにも見える。
そんなことを言われても、櫂にだって、他の手段なんてわからない。
「どうしたらいい」
問うても、答えがあるとは思っていなかった。
「……こう、」
掴まれた手首を引かれて、勢いでレンの胸に倒れ込む。
それでも、その行為が持つ意味を、櫂はわかっていなかった。
*1
中学から、行きつけのカードショップに向かう途中、溜池に注ぐ用水路を越える。
その支流となる溝に、レンが嵌って転んだ。
真冬の放課後だった。
「ひゃあ、つめたいです、きたないです、しょんぼりです、櫂」
大した溝ではない。
踏み外した足が突っ込んだくらいだったら、制服の裾が汚れる程度で済んだ。
けれどレンは、その時やけに浮かれていた。
新しいブースターパックの発売日だったのかもしれない。
好き好んで冬枯れの雑草を踏みつけ、溝の上の斜面を歩いていたから。
ほんの少し踏み外したら、そのまま見事に滑り落ちる。
爪先から底まで突っ込んだ後、びっしりと生えた苔に、更に足元の安定を失った。
大人の横幅がようやく嵌る程度の水路に、背中から引っくり返る。
「……、大丈夫か、」
幼稚園の頃、あんな転び方をしたことがあったっけ。
櫂はしばし遠い目で、遠い過去を思った。
立ち上がろうとして、今一度滑って横転したレンに手を差し伸べる。
長い指に緑色の苔が絡んで、冷たくなっていた。
さらに滑っても気の毒だし、櫂は力を込めて、重ねた手を引く。
足場の悪いレンは容易くよろめいて、櫂の胸元に体重を預ける形で倒れこんで来た。
「だめです、櫂もでろでろです」
身長差がさほどない二人だったが、今は体勢を崩したレンの方が、櫂に縋りつくみたいになっていて。
紅の目線が、見上げてくる。
「……そうだな。でろでろだな、」
コートの前が、苔と泥水だらけだった。
これでは、クリーニングに出さないといけない。
叔母には、申し訳ない、と、心の中で手を合わせた。
レンが、重なった手を、握る。
「櫂も冷たいです」
冷たい同士じゃ、あったまらないです。
どうしてか、その声が。
ひどく切実な気がした。
まっすぐに、レンの目が、至近から櫂を見つめる。
ただでさえ白い頬が、寒さで血の気を失っているのを見下ろして、櫂も視線を止めた。濡れた髪が、額に頬に張り付いて、妙に扇情的な気がする。
「冷たいのは厭か、」
「……櫂なら、厭じゃないよ」
レンの指が、櫂の指に絡んで。
交差して。
握る。
「僕が温めてあげるから」
柔らかな指の付け根に、レンの指が触れる感触が。
ぞくん、と。
櫂の中に、未知の感覚をもたらす。
「くすぐったいからよせ」
それをあえて、既知の言葉に置き換えた。
鼓動が、どうしてか速くなった気がする。
指先は冷えているのに、顔が熱い。
視線を移すと、レンの髪の先が水を含んで、雫を滴らせている。
櫂は手を伸ばして、それをきゅ、と絞った。
手のひらを重ね合わせたままにしているのは、なにかいけない気がして、解く理由を探したのかもしれない。
なのにレンは、その手をまた取って。
「はぁぁぁ」
口の前に持って行ったかと思うと、思い切り息を吹きかけた。
真冬の大気に、吐息が白く染まる。
「あったかいですか?!」
問う顔は、真剣そのものだ。
「……いや、まぁ、ふつうだ」
少し拍子抜けした気がして、櫂は反応に困った。
レンは、まじまじと見つめてくる。
あんまり見られるのも、落ち着かない気がした。
目を逸らして、空を仰ぐ。
重たい曇天の、灰色。
「降るといけない。帰るぞ」
先に立って、歩き出す。
こうなってしまっては、行き先は変更だ。
「櫂のお家にお持ち帰りです」
「……変な言い方をするな」
まだ。
ずっと。
このままでいられると、思っていた。
レンは同い年だけれど、自分より、自分達より、だいぶ子供だ。
櫂は、ずっと、そう思っていた。