日常の断片

□あなたの、柔らかい、くちびる
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 私はゆっくりと押し倒される。
「鈴、好きだ」
 そう言いながら、彼の手が慈しむように私の肌の上を滑る。私が何も考えられなくなるように。
 彼の部屋。飲みかけの缶ビールと散らかったポテトチップスの袋が視界に入る。
 どうしてこんなことに?
 私のその問いは、彼から感じる熱によって、うやむやに頭の端に追いやられていった。


「すーずー。今日暇?」
 学校が休みだから真昼間から部屋でぐだぐだしていた私に、草太からの電話。
 なんだか声が聞き取りにくくて、慌てて流していた音楽のボリュームを下げた。急に草太の声が近くに感じる。
「聞いてるの?」
 少し苛立ったような声音に、私は相変わらずベッドに横になりながら笑い声を立てた。
「ごめんねー。音楽が煩くてさ、聞き取りにくかったの」
 それで? と、用件を促す。
「あのさ、今日暇だったりしない?」
「あー。」
 唸りながら身体を起こす。すぐ傍の壁に飾ってある二人の写真が目に入り、思わずにやけてしまう。
「ごめん。今日はダーリンと過ごす予定なの」
 仲良さそうに寄り添う二人の写真の縁を指でそっとなぞりながら、草太に告げる。
「そっか。じゃあ、別な奴誘って飲みにでも行こうかな」
「うん、折角誘ってくれたのにごめんね? 楽しんできて」
 幾分寂しそうな声を出す草太に悪いと思いながらも。
 私は今から会う彼に思いを馳せて、その後の草太の話なんて殆ど聞いていなかった。
 
 電話を切って時計を見ると、短い針はもう四を指している。彼との待ち合わせは六時だから、今から化粧をしても充分間に合う。むしろまだ早いくらいなのに、私は待てない。その時間さえ、惜しい。
 髪の毛をこてで真っ直ぐに伸ばしてから、化粧を始める。大好きな彼のために。マスカラを塗り重ねて、アイラインは控えめに。大好きな彼に可愛いといって欲しい為に。
 待ち合わせの場所に、十分前には着くように。私は、お気に入りのスカートを翻して駅に向かった。

 電車の中。私は今から始まる彼との甘い時間を想像して思わずにやける。隣のおばさんが私を不審な目で見たけど、気にしない。
 待ち合わせはいつもと一緒、駅の改札。
 私は降り立った駅の改札を目指して小走り。辺りをきょろきょろとせわしなく眺めて、見つける。私の好きな空気を纏った彼。
 思わず手を大きく振った私を、なぜか苦み走った目で見る。
 不審に思いながら改札を抜けると、彼の隣に寄り添う女の子。

「……誰?」
 私に許された言葉は、きっとそれだけ。
 そして彼も、
「ごめん」
 それしか許されなかったのかもしれない。
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