日常の断片

□女神の涙
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Chapter X


 彼女が泣いているその姿はあまりにも神々しくて、僕は彼女に口付けずにはいられなかった。彼女は僕からの口付けに心底驚いているようだった。行きかう人々は僕らを見て、微笑んだり、顔をしかめたりしているだろう。僕は目をつぶっているから確認できない。人通りの多い道路の本屋の前。本屋は潰れていてシャッターは下りっぱなし。僕は目を開けて彼女を再度見つめなおすと、そこにはさっきよりも艶っぽい、魅力的な女の人が、瞳を濡らして僕を見つめていた。そしてゆっくり唇を動かす。

「なぜ?」

 なぜだろう。よく分からないけど、僕はあなたを愛おしく感じてしまった。愛おしいものには、キス。

「ありがとう。そんな風に言われたのは、とっても久しぶりだわ」


 彼女はそうやって少し困ったように僕を見つめた。そんな風に見つめられたのは、初めて。

「恋をされたこと、ないの?」

 恋されたこと?僕には付き合っている彼女がいる。同い年の、可奈という可愛い女の子。

「その子と、愛し合ってる?」

 愛し合う!そういう言葉をさらりと言えてしまう人間を、僕は知らない。
 そして、僕と可奈は愛し合っていない。楽しみを共有しているだけ。

「それってとてもつまらないわね」

 いつの間にか涙を流すことを忘れた瞳が悲しそうに僕を見る。
 楽しいのにつまらない。すごく矛盾してる気がする。
 それなのに思い当たるところがあって、僕はうろたえる。

「私は今のこの瞬間、あなたをとても愛してるわ」




 年上の女と学生の割り切った関係。そういう言葉で僕と彼女を表す人もいるだろう。でも、彼女は可奈よりもはるかに僕を愛してくれていたし、僕もまた、いつの間にか彼女を愛し始めていた。

 それはもしかしたら、彼女と出会った瞬間から始まっていたのかもしれない。
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