日常の断片

□あなたの、柔らかい、くちびる
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 結局詳しい話も聞かずに、彼とその女の子に一瞥をくれると、私は来た道を引き返した。
 携帯電話を取り出し、草太に電話。
「はいはい。今からデートぉって自慢しに電話したとか言うなよー?」
 のんきな草太の声は、私の涙腺を刺激した。
「もしもーし。すずー? どうした?」
 必死に、声は出さないよう。草太に悟られないよう。私はごくりと唾を飲み込む。涙は頬を伝いっぱなしだったのだけど。
「なんでもないの。ちょっとね」
 うん。我ながら上手く誤魔化せた。声も震えてなかったし。
 草太もなにも言わないから、私は勝手にそう思って、次の言葉を紡いだ。
「別れてきちゃった」
「……」
 草太の返事は無い。この沈黙がなんだか恐くて、いつの間にか自然と涙も止まっていた。
「鈴、オマエ今どこにいるの?」
 怒ったような口調の草太は本当に珍しくて、
「今、駅」
 恐がる必要なんか無いのに妙に萎縮してしまった。
「じゃあ、今からウチ来い」
「……なんで?」
 憮然とした草太の顔が想像できる。きっと奴は私がこんな顔で泣いていることを見抜いてしまったんだろう。その証拠に、
「何ででも!」
 という草太の声音はいつものように思いやりに溢れていたから。


「お邪魔しまーす」
 私はすっかり赤くなってしまった目を直そうともせずに、化粧も崩れたまま草太の家にあがりこむ。
 鍵が掛かっていないのはいつものこと。心配だからやめろって言っても、聞く耳持たず。
「相変わらず男の一人暮らしは荒れてるもんだね」
 キッチンにある溜まった洗い物を見ると、笑い声を隠せなくて。
 私は草太がいるであろう奥の部屋に足を進める。しかし、そこに探し人は居なかった。
 私が来ることになったから、今まで草太は部屋の掃除をしていたのかもしれない。いつも雑然としているテーブルには灰皿とリモコンしかなかったし、床はきれいに水拭きされた跡がある。
「なんか、いい匂いがする」
 匂いの元を探ると、誰から貰ったのか、アロマオイルが素焼きの石に染みこんでいた。
 私は草太のベッドに仰向けに倒れこんだ。途端に草太の匂いが私を包み込む。
「あれ?知らない靴がある」
 玄関の方から草太の声。
 私は危険を察知したウサギのように、すばやく起き上がり声のする方に顔を向けて、ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で梳く。

「もう来てたんだ。あ、買い出し行ってきたの。食べるだろ?」
 私を見て何事も無いようにそう言うと、大きな目を見開いて微笑んで、手に持ったコンビニの袋を軽く持ち上げて見せる。
 その中に私の好きな杏仁豆腐を見つけたから、私はもう、それだけで上機嫌になって、
「食べる! その杏仁、私にでしょ?」
 と、大好きだった彼と別れたことなんてすっかり忘れそうになっていた。
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