短編

□サヨナラのキス
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9 さよならのキス

鎹鴉の届ける訃報で兄の殉職を知った時、真っ先に泣き崩れてしまった俺を支えて、抱き締めてくれたのは兄の妻である名無しさんさんでした。
本当は誰よりも泣きたかったはずなのに、父や俺に代わって通夜と葬儀の手配を執り行ってくれました。
俺も出来る限り手伝いましたが、それでも泣く暇もなく忙しく走り回る名無しさんさんは痛々しくて・・・己の不甲斐なさを呪うばかりでした。
葬儀恙無く終わり、兄上が人の形を保っていられるのも今夜のみとなり、最後に兄上の顔を見ておきたくて、遺体を寝かせている部屋へ行くと名無しさんさんがいました。

「もう、あなたに名無しさんと呼んでもらえないのが夢なんじゃないか、と思ってしまうんです」

兄上の遺体のそばに正座して、ほつれた髪を整えることもなく、草臥れた風で、でも兄上の顔を優しく撫でながら静かに笑っていました。

「お館様に聞きました。杏寿郎さんの活躍で誰も死ななかった、と。
でも、その人たちを犠牲にしてでも、あなたに生きていてほしかった、とも思うんです・・・」

ぽつり、ぽつり、もう何も言えない兄上に語りかけていく名無しさんさんを見ていると、涙が溢れてきて、でも二人の最後を邪魔してはいけない、と俺は必死に口を塞いで声をおさえました。

「覚えてらっしゃる?隠はみな覆面をしているのに、目元と握った手の感触だけで私を見つけだしたあなたが、皆さんがいらしているのに結婚を申し込んできたの。
あれ、本当に突然で恥ずかしかったんですよ」

その話は初めて聞きました。
いつもどこで会ったのか聞いても照れ臭そうに名無しさんさんが俯くから、兄上も教えてくれなかったので、そんな出会い方だったのかと、たったそれだけで名無しさんさんを見つけだした兄上の観察眼にも驚きました。
でも納得もします。兄上は本当に名無しさんさんを大切にしていました。
はたから見ていて、俺も将来兄上のように伴侶となる人を大切にしよう、笑い合える人を探そうと思ったほど。

「私でいいの?って聞いたら私が良い、と言ってくれたあなた。
弱き人達のために自分を投げ打ってしまえる、あなたを支える妻になろうと思いました。
でも、お義父様がああなってしまった気持ち、今なら少しわかります・・・あなたを追っていきたくて・・・たまらない・・・」
「!」

駄目です、逝かないで。
あなたまで逝ってしまったら、俺は二度と立ち上がれなくなってしまう。
そう言いたいけれど、反対に逝かせてあげたい、と思ってしまう自分もいました。本当に兄上と名無しさんさんは仲睦まじい夫婦だったのです。
声が出ず、襖を開けることもできず俺はその場に固まってしまいました。

「でも、もう少しだけ頑張ってみます。お義父様が立ち直って、千寿郎君が立派な大人になるまで、私頑張りますから、見ててくださいねあなた」

そっと兄上の遺体に口づけて、離れた名無しさんさんは三つ指をついて兄上に頭を下げた。

「杏寿郎さん。お疲れ様でした」

そう口にした後も名無しさんさんは頭を上げることなく肩を震わせて、しゃくりあげだした。
兄上が死んで初めてようやく泣いた名無しさんさんを、俺はどこかほっとしたような気持ちで眺めてその場を離れました。

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