♪ dream

□4 二つの秘密(後)
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パン屋の朝は早い。


名前はエリザベスに見守られながら、
店主夫妻と開店準備を手伝っていた。


店前の桜並木は昨日に比べて
だいぶ開花し始め、もう六分咲きだった。



ストーカーされたことや家を荒らされたことなど忘れて
名前は仄かな桜の花の香りを胸いっぱい吸い込んだ。



「今日もいい天気」



あまりの日差しのやわらかさに
名前は思わず、ひとりごちた。



「陽気がいいせいで、あんなに桜が咲き始めてる。
 山崎さんに早く見せたいな」



客足が途絶えた店の中で、いつものように番をしながら
名前はじっとパン屋の入り口をみつめた。



春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので
パン屋のガラス越しに見える街行く人々の足取りは
ゆったりとしていた。



それを見ていると、
この店の中に、気持ちいいくらいの気だるさと
安息が充満していく気がした。



待ち人はやはり
市井の人のように眠そうな目をして現れるのだろうか。


それとも、
桜の花のようなやさしい笑みを浮かべながら訪れるのだろうか。


そんなことを取り留めもなく考えていたときだった。



「やあ」


いつも通りの掛け声。


待ち焦がれていた主だった。

しかし、名前の予想を裏切って
山崎は少し疲れているように見えた。


何かあったのだろうか、と名前は心配する。



「山崎さん、こんにちは。
 何だか、元気がないように見えますが、
 お疲れですか?」



「まぁ、ちょっとね」



山崎は隈の濃い目を細めて笑った。


やっぱり肝心なことは教えてくれない。



「名前ちゃんこそ
 困っていたことは解決した?」



微かに声が掠れた声が耳をくすぐる。


名前はくちびるをかみしめた。


こうやって、
話をすりかえるのが山崎はうまかった。



何か手伝えることがあれば、手伝いたいのに、
わたしは山崎さんのことを何も知らない。



「……大丈夫です」



そうだ。


名前は今さらのように気づいた。



父が政治犯として斬られたあと皆が離れて行ってから、
誰かに頼ることが怖くてたまらなかった。



そして
攘夷派で真選組に斬られた父親を持つことを
ひたすら隠そうとしてきた。



長屋で親身にしてくれる老夫婦にも
毎日店に来てくれるのを待ち焦がれる山崎にも
弱音や愚痴をはいたことがなかった。



もし受け入れてもらえたら、
もし弱さを支えてもらったら、
きっと崩れ落ちるように彼らに依存してしまいそうだった。



でも、いま、やっと気づいた。



本当の自分の姿を隠そうとしている者に
誰が自分の厄介事を話すだろうか。



「あの……山崎さん!」



パンを載せたトレーを台に置いた山崎の双眸が
名前を鋭くとらえる。



「あの、わたし、実は……いま……」



いま、困っていることがあるんです。
お言葉に甘えて、少しだけ話を聞いてくれませんか?



そう言いたかった。

名前は口を魚のようにぱくぱくと動かしたが、
どうしても声が出てこない。



山崎は辛抱強く、名前の言葉を待っていた。



春特有の強い風が、桜の枝をゆらゆらと動かしている。



名前の胸のうちもざわめいている。




「あの…その…」



まるで懺悔室で神父に向かって告白するように
両手を合わせながら、
名前はぐっと山崎の方に身を乗り出した。



ガタンッ!



椅子が倒れる音が耳をつんざくように
店内に響いた。



「名前ちゃん、大丈夫?怪我は?」


「大丈夫です」



ああ、やっぱり言えない。


機会は、きっと、もう永久に訪れない。



名前は倒れた椅子を元に戻しながら
ぎゅっと奥歯をかみしめた。



そして、胸いっぱいに息を吸い込んだ。



大丈夫。



一人でも大丈夫。



「すみません、すぐに会計しますね」




そういって名前はパンを袋につめた。



山崎は眉根を少し寄せ、それを見て
そして溜息と一緒に息を吐き出すように

「ああ、ごめんね。あんパン三つ追加」



とパンを取りに戻った。



「あんパンを三つも、ですか?」



「うん、そうだよ」



「山崎さん、あんパンは別に好きじゃありませんでしたよね
 おつかいですか?」



山崎は名前の言葉に曖昧な笑みで応えたのだった。




「また来るね」




山崎は桜並木の中を帰っていった。



外の風が強いせいか、山崎の顔が険しく見えた。



まるで剣の切っ先のような光を双眸に湛えているように見えた。
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