♪ dream

□4 二つの秘密(後)
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「ベスちゃん、
迎えにきてくれてありがとう」



名前のバイトが終わり、店から出ると
そこには
「ごくろうさま」という板を持ったエリザベスが待っていた。



真冬に比べたら、
ずいぶん日が伸びて
ちょうど夕日が輝いて落ちているところだった。



薄桃色の桜さえ、茜色に染められている。



桂は家で研究書を守っていてくれているため
エリザベスが迎えにきてくれたのだろうか、と思いながら
何も言わず歩き出すエリザベスの後を追いかけた。




エリザベスが右足、左足、右足と、
ぺたぺたと足を進めると
そのたびに、ふよふよと綿布の端が揺らめいた。




今日のパン屋の勤務中、
山崎に対して抱えている悩みを言えなかったことが
まだ胸に引っかかっていた。




名前の秘密。



政治犯の娘であること。



誰かと親しくなればなるほど、
誰かと親しくなりたいと思えば思うほど



名前の秘密は
胸の中で重さを増していった。




「ベスちゃんって、軽やかに歩くんだね」




名前はエリザベスが
気体のようにふわりふわりと歩いているのを見て、
自分の鈍重な心となんて正反対なんだろうかと思い、
見ているだけで少し救われた気がした。



そして、銀時の言葉を思い出していた。




「なぁ、名前ちゃん、
 謎めいた女にゃ男は弱いが、
 いざってときに頼ってもらえないのも悲しいもんだぜ」




そうなのだろうか。



何かあったら相談に乗るよと言ってくれる山崎の言葉に
素直に応えていいのだろうか。



もし、すべてを打ち明けてしまえば
山崎さんの心配事も分かち合うことができるのだろうか?



まるでメリーゴーランドのように、
名前の思考は同じところをぐるぐるとまわっていた。



「よし、明日、桜が満開になったら、
 山崎さんに打ち明けよう」



それで遠ざけられても仕方ない。



春は始まりの季節でもあり、
終わりの季節でもある。



もうウジウジ悩むのは嫌だった。



エリザベスのように、
軽やかに風のままに歩き始めて見たかった。



そう決心したとき、
ふいにエリザベスが名前を裏路地に引きずり込んだ。



ベスちゃん?こっちは家じゃないよ?!と
驚きの声をあげようとしたとき
大きな手で口を塞がれてしまった。



「むぐっ」




「しっ! 大声をあげれば奴らに見つかる」




桂の声だった。
名前の背中に固い胸板があたり痛みを感じる。




桂さんの胸の鼓動が早い。




口を塞がれたことによって
押し付けられた右耳が桂の心臓の音を捉えていた。



奴らとは誰だろうか?などと
思慮深く考える余裕などなかった。




「俺のあとをついてくるんだ」




そう促されて名前は、
桂に手をひかれて走りだした。



エリザベスがぺたぺたと後をついてくる。




「こんなところに廃屋が…」




ここらに住み始めてもう何年も経つが、
こんなところに廃屋があるなんて気が付かなかった。




屋根には穴が開いて、
そこから黄昏の光が差し込んでいた。



黄金色の光が桂の艶やかな髪に反射している。



荘厳な姿には似合わず、桂の表情は硬かった。



それもそのはずだった。



「桂さん、怪我を…!」



名前は袖にべっとりとついた血糊に
蒼白になった。



「なに、大丈夫だ。心配するな。
 俺は並大抵のことじゃ倒れん。
 そんなことよりも名前殿、
 落ち着いてきいてくれ
 いま俺は真選組に追われているから
 手短に話す」



そういって、
桂は今日の名前の長屋での顛末を話しだした。




「今日の正午頃に、男どもが数人、
 名前殿の部屋に入ってきた。
 おそらく名前殿のいない間に
室内を物色しようとしていたんだろう。
 俺が室内にいたことに目玉を丸くしておったが、
 目撃者を消そうとしたのだろうな、襲い掛かってきた。
 そのなかの浪人が剣を持っておってな、
 空き巣にしてはえらく腕がたつ男であった。
 単なる空き巣ではなく、統率がとれた犯罪集団のように見えた」




「ええ?!犯罪集団?」




「ああ。もしかすると、
 おれたちが思っていたより大変な事態に陥っているのかもしれないな」




「大変な…事態?」




「実は、俺とそいつらが戦っているときに
 真選組が入ってきたのだ」




「なぜ真選組が…?」




「名前殿、斑猫の話、俺以外に話したか?」




「いえ、誰にも話したことはありません」




名前はふるふると首を振って否定した。



桂は腕を組んで、顔を仰向けにして呟いた。



「もしかしたら、
 昨日のおれたちの会話が
 真選組の諜報に聞かれていたのかもしれない」



日が落ちてきたのだろう。


桂の黒髪と夕闇の境がだんだん曖昧になってきた。



「これは、俺たちの予想をはるかに超えた事態になるかもな。
 斑猫の粉の製法をめぐって、俺たちと真選組と犯罪集団」




「そんな大事に…?」




名前は眉をしかめた。



急な事態に足がふらふらしている。


地面がぐにゃぐにゃ動いているようだ。



「大丈夫だ。心配するな。
 名前殿の家に乗り込んできた隊士たちは
 全員で俺を追ってきているから、もう長屋にはいない。
 それに、真選組が名前殿を守ることはあっても
 危害を加えることはありえない」




桂は不安そうな名前を安心させるように
ふわりと微笑んで、頭を撫でた。



これが剣を振るい、
倒幕を成し遂げようとしている人の肌だろうかと思うくらい、
色が白かった。



薄紫の闇が包んで彼はまるで剣を持った天女のようだった。



ガサッ!!



「何奴?!」




名前は連中が廃屋を取り囲んでいる光景が脳裏をかすめた。



名前は外の気配を窺う桂の姿を前にして
緊張ではち切れんばかりであった。



「外に誰かいるんですか?」



桂が周りの様子をうかがう。



「安心しろ。
 あんパンの袋が飛んできただけだ」




「よかった」



「今も真選組の諜報が名前殿を監視している可能性が高い
 俺ももう見つかっているのかもな。
 俺は居てやれないが、エリザベスを残していく
 そろそろ俺は行かねば」



「そうですか……
 どうか御無事で」



よほど不安げな顔をしていたのか、
桂は名前をなだめるように手をとった。



「そんな顔をするな。
 俺は一旦は真選組の追っ手を撒くために
 名前殿のもとを離れるが、
 銀時のもとへ行き名前殿を守れるように態勢を立て直す。
 
 すべてが終わったら、
 またあらためて名前殿の父親に線香をあげに参ってもいいか?」



桂はぎゅっと力をいれて、手を握った。



「はい。待ってます」



名前も桂の手を力強く握り返した。



「わたし、薬の製造方法を絶対守ってみせます。
 だから、桂さんは無事に逃げ切ってください」






その夜、
名前の部屋は朝までずっと明かりが灯っていた。



エリザベスは寝ずの晩を過ごし、
名前はその横で父の残した研究をまとめていた。



あと少し、あと少しだった。



父が残したメモを、医学書を手掛かりに一冊に閉じれば
あとは、医学研究所に持っていくだけだ。




それまでは隠し場所にいれておく。
あそこならば絶対に見つからない。




もし、何かわたしにあったときのために
桂さんとエリザベスに隠し場所を伝えておかなくては。




「桂さん、どうか無事で……」




両手を組み、名前は桂の無事を祈った。



心細さで誰かにしがみつきたい。




誰か?
誰かなど不特定な人物ではない。



しがみつきたい人など決まっている。



明日。


明日、わたしがしがみつきたい人に
すべてを打ち明けよう。




いつ何があってもおかしくないのだから、
すべてを伝えたい。



明日だ…。



明日、すべて打ち明けよう。
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