♪ dream

□4 二つの秘密(後)
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パン屋の朝は早い。



どれだけ徹夜しようともパン屋の朝は早かった。



今日も名前はエリザベスに見守られながら、
店主夫妻と開店準備を手伝っていた。



店前の桜並木は満開で、
雲一つない薄い水色の空と見事なコントラストを描いていた。



ぼんやりと思い瞼を
目の前一杯に咲き誇る桜色がしゃきっとさせてくれるのを感じ、
名前は店の前の掃除を終えた。



そろそろ客足が途絶える頃だった。



待ち人が来たら、
今日こそ、わたしの秘密を打ち明けたいと思っていた。



いつも心待ちにしてドアを見るのに、
今日は来てほしくないような来てほしいような微妙な心持だ。



それでも、
ドアから見える満開の桜が名前の心をいくらか解きほぐした。



今が盛りとばかりに、
ぱっと咲いてぱっと散ってしまう桜の姿は
今の自分を励ます存在のように見えた。




「やあ」




「こんにちは」




待ち人、来たり。




「こんにちは」




何だか、ちょっと雰囲気が違う。
名前は
ちらりと山崎の表情や一挙一動を見遣った。




「最近、あんパンばかり買っていきますね」



少し、冗談ぽく山崎に笑いかける。



「そうだね。ちょっと入用で」




「ふふ、どんな用事なんですか?」




「大事な用事だよ」



名前はその応答を不思議に思って、
山崎の顔をちらりと見遣った。



明確に言葉にすることはできないが、
いつもの山崎の柔らかい雰囲気とは違っているような気がした。



しかし、別段怒っているようでもないので、
いつものように会話を続けた。



このまま、会話を続けて、
自然に自分のことを打ち明けたい。



名前はそう思って、
「山崎さん、
 毎日三つずつパンを買っていきますよね。
もしかして山崎さんが三食ずっとあんパンを食べているんですか?」



といたずらっぽい目で山崎を見た。




「ははは。そうかもね」




またそんなこと言って、と名前は笑った。



山崎もははは、と笑う。



今がチャンスだ!

「あの……山崎さん
 いつかわたしのこと心配してくださいましたよね?」



「んん?どうしたの?何でも聞くよ」




「ええと、…」




寝不足のせいかうまく言葉がでてこない。



…というか、どこから話せばいいか分からない。



わたしが生まれた生家が医学者の家系だったこと?



それとも父が斑猫の粉の研究をしていたこと?



でも、ずっと言えなかったのは、父が政治犯として処されたこと。



じゃあ、
父と一緒に江戸にわたしが上京してきたところからだそうか?



「うーん、その…」



山崎は広がっていく沈黙を断ち切るように

「ああ。
 もしかしてもう誰か名前ちゃんのことを
 助けてくれる王子様があらわれちゃった?」



と語気を強めて言った。


やっぱり今日の山崎さんはいつもと少し違う。



「それって、長髪の王子さまかな?」




山崎が見せたことのないような冷然とした双眸で
名前を射るように見つめた。



名前はなぶるような視線に
惹かれ、とまどいながらも
もしかして…と彼女は思った。



もしかして、
今回の件で山崎に何か迷惑がかかってしまったんだろうか。



動揺で名前の目が一瞬左右に泳いだ。



「いま目が泳いだよ?もしかして図星なの?」



彼は静かに微笑んで、
あんパン三つと紙パックの牛乳三本分の代金を差し出す。



「も、もしかしてわたしのせいで何かご迷惑を――」




言いかけて、彼女は自身の手に違和感を覚えた。




「俺のこと心配してくれてるの?
 本当に名前ちゃんって優しいよね」



ふんわりとあたたかい。
数秒経って、
小銭を受け取る山崎の手が
そのまま彼女の手を包み込んでいることに気づいた。



驚いて山崎の顔を見返す。




「山崎さん、あの、手を……」



山崎は掴んでいた名前の手を引っ張って
ぐいっと自身の方へ引き寄せた。



そして名前の耳元にわざわざ
くちびるを近づけて告げた。



「かわいい。
 耳まで真っ赤になってるよ」



山崎は微笑んでいた。



しかし、
これほど乾いたしたたかな笑顔を見たことがなかった。



ぞくりと背筋が冷たくなり、
そのまま山崎の方へ倒れこんでしまいたくなる。



そして、また山崎は耳元でつぶやく。



「そうやって自分の問題を隠して
 誰かの重荷にならないようにしようとしているところ、
 優しいからできることだよね。
 名前ちゃんのいいところだってよく知ってるよ」




店内や、仕事の帰り道くらいでしか話さない仲なのに?



世間話しかしたことのない間柄なのに?



そんな疑問など、寝不足の頭には浮かんでこなかった。



まるで催眠術にかかっているように
頭がくらくらした。



「でも、そうやって逃げてきたんでしょ?
 もし誰かに荷物を背負わせてしまったら、
 頼ってしまったら、
 もう離れられないって知ってるから」




名前は自分の問題を話すことから逃げている。



そういわれていることくらいは理解できた名前は
慌てて反論した。

「ち、ちがいます。
 わたし、今日は山崎さんに、お話ししたくて……」



その言葉を待っていました、とでも言うように
山崎は名前を瞠目した。



名前はしっかり息を吐いてから
大きく新しい空気を吸い込んだ。



もう、当たって砕けるしかない。




そのときだった。



カラン
カラン



店の外から大きな板が転がるような音が聞こえた。



ガラス越しに
エリザベスが横十文字に一太刀で斬られている光景が見えた。
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