短編その2

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バイトを終えて家に帰ると、こたつに住み着く猫がスヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てていた。

「ただいま」

起こさないように、だけど習慣付いているがゆえに言わずにはいられない言葉を小声で落としてみるが身動ぎひとつしない。買ったばかりの長座布団に埋まった寝顔を覗き込んでみれば、穏やかな顔をしていた。でも口はだらしなく緩んでいるしなんなら涎が少し出ている。どんな夢を見ているのか時々聞き取れない寝言をぼやいていて、あまりにもゆるゆるな姿に笑ってしまった。

大寒が訪れた師走。
都心の景色が白く染まるのも近年ではあまり珍しくもないことだった。外に出れば肌に突き刺さるような寒さによって容赦なく体温が奪われ、全身の動きが鈍くなる。少しでも体温を上げるためとはいえ、ずっと震え続けるのも苦しい。
コートの下に何枚も重ね着をして、カイロを貼って、マフラーや手袋をしてと防寒をしても年々増していく冬の厳しさについていくのは一苦労だ。
そんな寒さは家の中にもある。外に比べたらマシとはいえ、春秋のようにある程度の薄着で過ごせるわけではなくエアコンやこたつといった暖房器具が大活躍だ。その代わり電気代が跳ね上がるのだけど快適に過ごすためには欠かせない。

猫と化した先輩はもっぱらこたつと仲良しだった。

テーブルの上には箱買いをしたみかんの皮だけが放置されている。そのとなりには飲み干されたままシンクにすら置かれていないお気に入りのマグがあり、ひと通りぬくい時間を過ごし、そのまま眠気と寒さに勝てず寝たあとであることが見て取れた。ヤドカリじゃあるまいし、こたつを住みかにされても困るのだけど強く言えないのはこの緩みきった寝顔のせいかな。
ぐに、と親指と人差し指で頬を摘まんでみる。
見かけとは裏腹によく伸びて、弾力があって触り心地がいい。まるでマシュマロみたいな柔らかさにむにむにと揉んでみれば、すぐに嫌そうな声を上げて顔をこたつ布団に突っ込んでしまった。

今日は俺が夕飯を作る予定だったし、さっさと支度をしてしまおう。隠れてしまった頭をそっと撫でてマフラーとコートを脱いでハンガーにかける。
椅子にかけっぱなしのエプロンを手早く身に付け、小さなアパートには大きすぎる冷蔵庫を開いてお目当ての食材を取り出した。

この部屋に身を置き始めてから、1ヶ月は経ったのだろうか。色々な経緯はあるが先輩と恋人関係になった途端に俺の私生活は一気に慌ただしくなり、食事もままならないことが多くなってしまった。見かねた先輩がうちに寄って飯を食って帰るか、いっそのこと泊まってしまうかのどっちかにしろと言ってくれて(先輩の家の方が学校に近かったので)、一度腰を落ち着けてしまうと自然と家に帰るのが面倒になり徐々に着替えといった必需品はこちらに移動していった。それからあれよあれよとしているうちに自分が住んでいたアパートが解約され、同居生活が始まり今に至る。

ザクザクとキャベツを適当な大きさに切っていく。肉は冷凍したものをあらかじめ解凍しておいた。量をかさ増しするなら野菜を増やすのが一番だが、今日は週末に業務スーパーで安売りをしていた焼きそば用の麺が大量にあるのでそれを多めに使う。
ソースをかければ食欲がそそられる匂いが立ち込め、炒める音と、換気扇の音でかなり騒がしいはずなのに家主は未だに眠ったまま。
卒業を間近に控えて論文などやることが山積みで疲れているんだろう。それでも、その山積みになったものをこなすためには食べなきゃやってられない。

「先輩、起きて」

出来上がった大量の焼きそばを、大きさの違う二枚の皿に盛り付けテーブルの上に置いたところでこたつ布団を捲る。顔を見せたのは青い髪でも素肌でもなくフードで隠れた後頭部…だと思うもの。
あったかいだろうが、顔まで突っ込んだらさすがに息苦しくならないのだろうか。疑問を抱きつつ肩を掴んで体を揺する。

「先輩、飯出来た」
「ん〜…」
「焼きそば」
「ふぁ、」

とても気の抜けた声が目覚めを知らせる。
呻き声のようなものを漏らしながら、亀のようにゆったりとした動きで頭を持ち上げるとこたつ布団にフードがさらわれてボサボサになった髪の毛と外じゃ絶対に見せない寝起きの顔が現れた。部屋の明かりが眩しいのか眉間にシワがぎゅっと寄せられ、そのまま数秒ほど停止したかと思えば寝惚けた瞳がこちらを見上げてくる。

「……んー、」

子どもみたいな舌ったらずな声が起きたと言っているみたいで、それは普段心の奥底に片付けてある衝動を容易く引きずり出して、乱れた青い髪の毛を無造作にかき混ぜる。ふわりとシャンプーの香りが鼻腔を擽り、灰色の目がキョトンとする顔に決して口には出せない、甘ったるい想いが溢れ返りそうになって唇を固く結んだ。

喉元まで出てきている。一瞬でも気を緩ませたら、蓋をしても収まらないだろうし膨張して元にも戻せない。
どう処理したものか。ぐちゃぐちゃになった髪の毛を丁寧に整えて丸みのある形に戻したところで、先輩の手が寝起きとは思えない力で二の腕を鷲掴んだ。え、と動揺する暇もなく引き寄せられるとバランスを崩して前のめりに倒れそうになって、慌てて座布団に手をついた。

「っぶね、」
「………うーん?」

さわさわと髪の毛同士が交わる。
肩口辺りに鼻先を埋めると、スンスンと匂いを嗅ぎ始めるから少しだけくすぐったい。
掴まれた二の腕には動くなと言わんばかりに強い力が与えられていて、じわじわと痛みが浸透してくるから離してほしいとボヤけば肩のぬくもりと一緒に消えていった。

―――と思ったらぼすんと体を預けてくる。ズリズリとすり寄って一ミリの隙間も許さないとでも言うようにくっつくからまるで縄張り意識の強い動物のように見えた。猫も、そうだったっけ。あまり詳しくないから、分からない。

「なんだよ。…甘えたなの?」
「ちがうぁないけど」
「どっち?」
「……知らない匂いがする」
「は?」
「今日、誰と会った?」
「誰って…」

ワントーン下がった声が不穏な空気を漂わせる。
早くしろ、と急かすようにスラックスの中に入れたシャツを引っ張り出そうとするから制止をかけて今日一日を振り返ってみる。
そもそも範囲が広すぎやしないだろうか。
日中は電車に揺られ、学校内で様々な生徒とすれ違い、バイト先は接客業なので色んな人と対面をする。それぞれの名前なんて知らないし規模があまりにも大きい。
とりあえず匂いが移るような距離で会った相手の名前でも出せばいいだろうか。

「えっと…電車内の誰かと、」
「それはいい。特定できる名前だけ」
「あ、はい。なら、花村と瀬多くらい…?」
「は? なんで瀬多の名前が出てくんの?」
「え、会ったからですけど」
「学校もバイト先も違うじゃん」
「そんなこと言われてもさぁ〜」
「なに話したの」
「話したというより…あいつがバイト先に遊びに来たってだけだよ」

あいつらとは高校時代からの仲だ。
どちらも物好きというか、お人好しというか。
卒業をしたら交流することも無くなると思っていたのに、やたら頻繁と、連絡を寄越しては飯を食おうとか誘い出してくる。
瀬多とは最初の学校で一緒になった。高校と同じようにあっちへこっちへ引っ張りだこな生活を送るのかと思いきや、それが嘘のように、俺とよく行動を共にした。人間性や顔のよさから人気を寄せるのは相変わらずだったけど自ら表立って行動することは殆どなく、大学くらいは平和に過ごしたいと、穏やかな学校生活を望んだ。
花村とは卒業してから間もなく、バイト先で再会をした。俺が接客業の仕事を選んだことにあいつは大袈裟と言えるほど驚いたし、頭でも打ったのかと要らぬ心配までするから脛を蹴り飛ばしてやった。口喧嘩が多いのは出会った頃から変わらない。それでも、お互いに言い合えるからこそ、信頼できるところは多々あった。
何かあれば頼れるし、頼られる、そんな二人だ。
俺にはもったいないくらい、いい奴ら。

「くさい」
「はぁ。ソースが?」
「違うよ。香水のにおい」
「先輩がくれたやつだよ?」
「お前は馬鹿なの?」
「いって、」

口が悪くなるくらいには気に食わないらしい。
ドス、と背中を強めに叩かれて息が詰まる。これが包丁だったら間違いなく心中だったわ。恐い。
たった今作ったばかりの焼きそばの匂いや汗臭さ、誕生日に貰った香水の中から、数時間も前に会った香りを見つけるなんて鼻が鋭いというよりもとんでもない執念深さだ。一周回って恐ろしい。キャバクラなんて行った暁には半殺しにされる未来しか見えない。

先輩は昔から、感情が乏しい人だった。
言葉はもちろん行動だって分かりにくくて、なにを考えているのか分からない。ミステリアスな雰囲気。と色んな人から色んな印象を抱かれていた。
だけど話してみれば、違った面が見える。
そもそも感情が乏しくなったのは抱えさせられていたニュクスの力の影響があってのことらしく、以前は陽気な性格だったらしい。本気で言ってんのか? と思ってしまったことは墓場まで持っていく。
乏しいけれど、ただ小さいだけで、分かりにくい。
言葉よりも行動。口よりも先に手が出やすい。
だから感情を表に出すときは、言葉少なく、態度で示す。
背中を叩いた今みたいに、子どものように。不器用ながら、一所懸命に。
すっかり拗ねて目も合わせてくれなくなった先輩の丸くなった背中に手を回す。一瞬なにかを言いかけた唇が固く結ばれたかと思えばすぐに緩んで、瀬多に会うなと、無茶振りを口にするから困り果てた。

「そんなん無理だろぉ…」
「なんでよ」
「だってあいつは、友だちだし」
「友だちでもさぁ」

いつ、なにが変わるか分からないじゃん。

珍しく歯切れ悪そうな、ボソボソとした、はっきりとしないことを言うから先輩の中でうまく整理が出来ていないんだろう。

微かに移った香水のにおい。

単純で、分かりやすくて、おもちゃを独り占めしようと必死な幼子みたいだ。

「俺にとってはさ、瀬多も花村も、大事な友だちなんだよ」

傷やたこが残る、綺麗とは言いがたい手を少しだけ輝かせてくれる束縛の証をいじりながら、言い聞かせるようにゆったりとスピードで語る。
腕の中に納めてしまえば、大人しく耳を傾けてくれた。

「だからそういう意地悪、言わないでよ。アンタだって、みんなに会わないでって言われたら困るだろ」

ねずみ色の目が、ジトリとこちらを見上げてくる。
不満の色を浮かべて、これは肯定しているのだと、勝手に決めつけて話を進める。

「ヤキモチ焼いてくれんのは嬉しいよ。それだけ、俺のこと大事に思ってくれてるってことでさ。
俺もそう。先輩を遠くから眺めるだけだった間、言い寄る女とか知らない誰かに、ずっと嫉妬してた」

じっとりと、たっぷりと間を置く。思い出させるように。俺の寂しさを分からせるように。
そうすると先輩は、そろそろと視線を逸らすからくすりと笑える。覚えがあるようで何よりだ。

「でも今は、今までアンタに言い寄ってきた女たちに対して優越感でいっぱいだよ。ざまあみろとも思う。すげー性格悪いって言われるかもしんないけどそう思っちゃうくらい好いてる。
先輩が知らない誰かのにおいを纏って帰ってきても、別にいいよ。どうせ俺が、全部上書きするからさ」

言葉にしてみて、よく分かる。
俺も独占欲のかたまりだ。あまり執着することは好まないんだけど、この人だけは別。
伊達に数年も片想いしていたわけじゃない。
ずっと好きだったんだ。ずっとその背中を追いかけてきたんだ。
やっと繋げた。最初は捨てる覚悟だった想いだったけど、繋がったんだ。

「いつも、というか…付き合ったときからそんなこと言わなかったじゃん」

青い髪に隠れて、じわじわと赤くなっていく耳を撫でればやめろと虚勢を張られる。そうだっけ? と惚ければまた睨まれて肩を竦める。

「焼きそば冷めるからさ。とりあえず、食べようよ」

俺たちは言葉少ないくらいがちょうどいい。

そうじゃないと、重すぎるからさ。





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