Treasure

□束の間の休息を貴女に
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ぽかぽかとした秋晴れの日。
少女―――…羽影雨月は、窓から差し込む柔らかな陽の光を受けながら、
布団の中で尚もそもそと身動ぎしていた。

少女と言っても、その文字の通り小さな女の子という歳では無い。
今年四年制の大学を卒業し、真新しいスーツを羽織り会社通いを始めた、立派な社会人である。

青天の朝一〇時。
時刻はその“社会人”であるならばとっくに起きて出勤していなければならない時間。
だがその布団にぐるぐる巻きになった物体には一向に動く気配が無かった。

眠いのではない。
身体がこの上なくだるいのである。
視界がぐるぐると周り、まるで船酔いでもしたかのように気持ちが悪い。
頭はぼぅっとするのに、毛布を頭から被ってもどうにもならない寒気と、
きりきりと頭を締め付けるような痛みだけは嫌に鮮明だった。

PiPiPiPi…。

「―――……三八.二℃…。うぅ…下がらないよぉ…」

真っ暗な毛布の中で、早く確認しろと言わんばかりに電子音が連続して鳴り、
やがてもぞもぞと芋虫か何かと同じような動きをした後、布団の中からやっとの事で顔が出て来る。

蒸気が上るのではないかと思われるほど顔は真っ赤で目は潤むのに、
首から下と来たらどんなに布団に包まっていても寒い。
喉は痛いし、喋るだけでもすかすかと変な声が出る。

―――風邪だ。
疑う余地もなく風邪である。

子供達が皆学校やら何やらで出払った平日の御町内はこれでもかというくらい静かで、
聞こえて来るのと言えば電信柱を止まり木にしている雀の鳴き声だとか、
この家から少し離れた場所から上がるタチミサーカスの花火の音だとか
サーカスのあの奇妙で陽気な音楽ぐらいだ。
平和過ぎる。

本来だったら今頃は『成歩堂法律相談事務所』にいて、仕事をしている筈だ。
真宵辺りがそろそろ『お腹空いちゃった、今日は私が手作り料理を作ってあげるね!』と言いながら
事務所の給湯室で得意のインスタントラーメンを作り始めている頃である。

そう言った彼女の元気な声も、鼻歌も、苦笑する成歩堂の声すら聞こえない。
この静けさが、会社を休んでしまったという罪悪感を更に煽り立てているようで、
元々芋虫のようにベッドの上で丸くなりもぞもぞしていた身体を、更に丸めて目を閉じるのだった。





□■□






次に目を覚ましたのは昼過ぎだった。
風邪の予兆はあったのか前日から何も食べられていなかったのであるが、薬が効いて来たのだろう。
目覚めた時には少しだけ身体が楽になっていて、僅かばかりではあるが食欲が戻って来る。

現金なもので、何か口に入れようかと考え出したら急に冷たい物が食べたくなってしまった。
早速起き上がろうとしたのだが、同時に冷蔵庫の中にはそんな目ぼしい物は飲み物ぐらいしかなかった事を思い出してまたベッドに沈む。
一人暮らしの女性にしては生活感とか女子力のあまり感じられない冷蔵庫だと友人からは言われたのだけれど、
仕事以外ではずぼらな性格である事を雨月はこの時になって初めて後悔した。
まあ、それでも『仕方ない、我慢しよう』で済ませてしまえるのだから今後改める気もないのだが。

ごろんと横になると、もう見飽きてしまった何の変哲もない天井だけが見える。

「(私って、仕事がないと何にもする事ないんだな…)」

どうしてこう、身体が弱ると思考はおろか考え方すら沈んだ方にしか行かなくなるのだろうか。
普段の姿からは想像も出来ない弱音をぽつりと吐き出し、らしくもなく溜め息を吐いた時。

ピンポーン…。

しんと静まり返った家の中にチャイムの音が鳴り響く。
しつこいように繰り返すけれども、平日の昼時など普通の社会人であれば仕事中だ。
そんな時間にこの家を訪ねて来るような人物に心当たりはない。

となればどうぜ新聞だ何だの勧誘だろう。
このまま居留守を使ってしまおうか…。

ピンポーン。

「―――…」

ピンポンピンポンピンポンピンポピピピピ…。

―――嫌がらせか。
最後なんてピしか鳴ってない。
そんな、ゲーム機のボタン連打じゃないんだから。

「―――はい…」

少し苛々しながらも、何とか傍にあった受話器を取り上げて擦れた声で応答すれば、
向こうからは何やら此方そっちのけの会話が。

『あのね、真宵ちゃん。相手は病人だから。
寝てるかもしれないのに、これじゃチャイムと言うか最早目覚まし時計だから』

『だって、お姉ちゃんのアパートに遊びに行ってた時は何時もこうやってたよ?
お姉ちゃんって低血圧だから、すっごく渋い顔して起きてきたけど』

『ん、それは低血圧云々じゃなくて、嫌がらせか否かの問題だと思うよ』

―――その通りである。
それは今の状況にも通用する事であり、尚且つ頭が痛い事にこの声には物凄く聞き覚えがある。

『あ、繋がっている。やっほー、雨月ちゃん!私!綾里真宵とついでのナルホド君!
風邪って聞いたけど大丈夫?お見舞いに来たよー、有給使って』

『真宵ちゃんに有給つけた覚えないんだけど』

予感的中。
雨月は今度こそ盛大な溜め息を吐くと、のそりのそりと動き出した。





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