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□誤解
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練習前の部室に、泉田の情けない声が響いている。
「はぁぁぁぁ、荒北さぁぁぁぁん…」
情けない声出すなよ、と新開がパワーバーを差し出しながら肩を叩いてやっている。
「…新開さんは振られた側の気持ちなんて分からないじゃないですか……」
「…分からなくもないんだけどな」
下がり気味の目中にある大きな瞳だけをを上にやり、自嘲気味に見える笑みを浮かべる新開に、最近女の影が見えない事に荒北は気づいていた。
「僕、これから先彼女ができるの事はあるのでしょうか…」
なぜか不毛な相手ばかり好きになる泉田は、ガックリと肩を落とし、再度大きなため息をつき、そして思いついた様に顔を上げると素朴な、けれども彼がまだ知り得る事ができない疑問を新海にぶつける。
「新開さん、セックスって気持ちいいんですか」
「うーん、そりゃ気持ちいいけど…」
唐突すぎる質問にも飄々と顔色も変えず答える新開。
「俺より靖友に聞いた方が為になると思うけどね?俺もこないだ振られたとこだし」
齧りかけのパワーバーで指され、慌てて口に含んでいた水分を嚥下する。
「ハァ!?んだヨそれ」
「靖友は大好きなみょうじとヤってるわけだろ?」
俺より数倍気持ちいいはずだ、と新開がからかうように視線を寄こすと、泉田は納得顔で頷く。
「確かにみょうじ先輩、いい体してますよね…」
泉田が視線を上に上げ、何かを想像するような表情になった事に気づき、大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「ゴラァ!今何想像したんだよ!!頭カチ割ってやんぞォ!!!」
「すっすみません!!何にもしてませんって!!」
後ろから、まぁまぁ、と新開に羽交い締めにされ、
いや、確かになまえチャンはいい体してるヨ?でもそれを見ていいのも想像していいのも俺だけダロ!!
誰もオカズにすらさせてやんねーヨ!
と叫びたい言葉を飲み込んで、何とか怒りを収める。
「でも結婚するまでに、普通何人くらい関係を持つんですかね」
真波が相変わらずの不思議顔で藤堂に問う。
「うーむ、新海はこのペースでいくと恐ろしい人数になるな!」
「だから新開さん程は望んでいませんって。参考になりませんよー。」
「泉田は純愛タイプだからな、やはり靖友、どうなんだ」
「ハァ?知らねーヨ!」
アイツと別れる…なんて考えただけで、すっと恐怖が意識を支配し、胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。
冗談じゃない。
誰にもやらない。あいつの今も未来も俺のものだ。
俺から離れていくなんて事があれば、あいつの喉を噛みちぎってでも止めてやる。
あーでもない、こーでもない、と会話を続ける部員を眺め、その度に振られる質問にうんざりする。
このろくでもない会話に終止符を打つべく、あぁもう、仮にだなァ…と前置きをして続ける。
携帯の調子が悪い事を伝えようと、珍しく部室を訪ねてきたみょうじなまえは、丁度聞こえてきた声にノックをするために振り上げた右手を止めようとした。
「俺が卒業してアイツと別て…そうしたらまぁ…あと数人とはヤるんじゃねーの?んな事聞くってコトはお前らだって何人かとはヤっときてーって事だろ?」
コンッ…
止められなかった右手が、部室のドアを一度だけ叩く。
強く叩いたつもりは無いのに、やけに右手が痛い。
いや、右手だけではない、全身が絞られる様に痛い。いま靖友は何と言った?
気づけば開いた扉に背を向けて走り出していた。
午前中に降った雨で地面はドロドロで、来る時は慎重に避けて通ったそこも気にせずに走り抜ける。
は?別れる?何人とヤりたいって?
ふざけるな。
ヤった人数が男の価値だと思っているような奴だったのか。
私を何だと思っているんだ。
突然、強い力で腕を掴まれ降り向かされる。
「なまえ、ちげーヨ、聞けって」
「うるさい」
涙を堪える為に精一杯目を見開いて靖友を見据える。
「だから泉田が……」
「別れるんでしょ、可愛い後輩と付き合えばいいじゃない!」
「ハァ?何言ってんの?」
私は知っている。
今日もお昼時に近くにいた後輩が、靖友の事を恰好いいと言っていた事を。荒北先輩?そんな可愛い呼び方を人の彼氏にするな。
インハイレギュラーに選ばれた辺りから、ファンが増えてきた。なんなんだ。あれは私の彼氏だ。自転車に乗り始めた頃から知ってる私の初めての彼氏なのだ。
「だから聞けヨ!!」
「知らない!!!」
叫んだ拍子に、堪えていた涙が一粒落ちてしまった。
靖友の表情が驚きに満ちたものになり、苦しそうな表情に変化した途端、後頭部と背中に圧力を感じた。
気づけば額は靖友の肩に縫い止められる格好になっており、
見えなくともその日焼けの跡からタコの位置まで瞼の裏に浮かんでくる程馴染んだ大きな手に、後頭部の髪をグシャリ、と掴まれた。
「泣くなヨ…誤解だっつってんの」
離して、と靖友の胸に手をつくと、視線の先には靖友の脚が見えていて、ジャージに着替えたばかりの筈のそれは、私のものより余程泥で汚れていた。
説明すると長ぇケドな、と再度抱き寄せられ、両手を背中に回されると、出会った頃よりも筋肉質になった体の重みが私にかかる。
「俺は…一生に一回だと思ってやってンだよ。……死ぬまで別れるつもりとかねぇから。他に好きな奴が出来たら言えよ……喰い殺すかもしンねーけど…努力はしてやる」
なぜ私に好きな人ができる前提になっているのか。
よく分からないが、なぜ靖友が震えているのか。震えたいのは私の方だ。
私を追いかけて泥だらけになっただろう脚を思い出し、言い訳は練習後にたっぷり聞いてやろうと思える程には落ち着いた。
fin.