長編
□導かれたのは地獄
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『ある夏の日の朝』
野山に囲まれた小さな村に彼女は父親と二人で暮らしていた。
明るい夏の早朝、朝日は夏特有の濃い緑の木々を照らし出す。
「_____行ってきます」
凛はまだ眠る父に小さくそう言うと、家を出ていつもの場所へ向かった。
そこは家からそう遠くない森、その森で一番の大木が凛の目的地だ。
大木は根元より少し上で二股に分かれ、幹の中央に大きな穴を空けている。
幹は上に伸びるにつれ、また一つに合わさり、太く立派な枝には緑の葉を生き生きと繁らせた。
樹齢数百年の大木は、辺りの空気を清めるような神秘的な存在感を放ってそこに在る。
そしてその周りには、まるでこの木を守るようにぐるりと一周して澄んだ水が湧き出ている。
その湧水が作る泉は、 真夏だと言うのにひんやりとして、透明な水鏡の水面は見る者の心を静かにさせた。
「おはよう、お母さん」
そう凛が優しく話しかけると、風に揺れる葉はざわめいて心なしか挨拶を返しているようだ。
ここは凛にとって特別な場所、幼い頃に亡くなった母との思い出の場所なのだ。
はっきりと母の顔を思い出すことは出来ないし、記憶もない。
だが手を繋いでここに連れてきてもらったことだけは覚えている。
「今日は遠方からの大切なお客さんが来るの」
そっと泉の澄んだ水を、桶で汲みながら話しかける。
「ゆっくりしたいけどあまり時間がないから、ごめんね」
誰が返事を返す訳でもないが、ここにいると不思議と母を感じられた。
幹の中央に腰かけ微笑んでいる姿が見えるような気がする。
大木を見上げ、ゆっくりと澄んだ空気を吸い込むと、スウッと清いものが体を満たしていった。
「ふぅ___よし、今日も頑張ろう。お母さん、また来るね」
そう言うと凛は、柔らかに笑ってその場を後にした。
あの場所が母のお墓というわけではない、だが母のお墓は何故か存在しない。
だから尚更、あの思いでの場所へいつの頃からか自然に通うようになっていた。
桶の水をこぼさないように慎重に、だが早足に凛は歩く。
「お父さん、ちゃんと薬作り始めてるかな...また寝坊して、予約のお客さんのこと忘れてないといいけど」
どこかうっかりものの父のことを苦笑いしながらも大切に思う凛の様子を、木の影から密かに見る者がいた。
「あと少しです」
影から見られていることなどもちろん凛は知らない。
そしてささやかな暮らしが終わりを告げ、彼女の世界が大きく変わる時がすぐそこまで近づいていることなど知る由もない______