長編

□想うはあなた一人
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待って
待って

お願い、少しだけでいいから私の側にいて



走って行く黒衣の背中を必死に追ううちに、深い森の奥へと迷い込んだ。
そこに咲く美しくも怪しい花は生者とは相容れない赤色で揺れる。

木々の隙間から射し込む光が一面に咲き乱れる曼珠沙華を僅かに照らし、光に所々引き立つ色はまるで煌めく海のさざ波を思わせた。

その花の群れに急ぐあまり転んだ彼女は、膝をつき今にも溺れてしまいそうだった。
手は届かない、けれど駆け寄れば触れられる距離で狐の面をした彼は立ち止まり彼女を見つめている。


伝えたい伝えたい_____


ぐしゃぐしゃと胸を乱すものに邪魔されて想いを伝える言葉が出てこない。
"行かないで"とこれ以上離れるのを拒むように、必死に視線を繋ぐ事が今の彼女に出来る精一杯。


「これ以上、私に近づいては駄目です___」

「_____どうして?それなら...どうしていつも私を助けてくれるの?」


やっと発することが出来た小さな声で彼女はそう呟いた。


確かに側にいた大切な人がある日突然消えてしまった。
その人を想う気持ちはちゃんと胸にあるのにその人がどんな顔だったのか、どんな風に一緒に過ごしたのか記憶も泡の様に消えていたのだ。

それはまだ幼かった彼女には目の前が真っ暗になる喪失感。

無い無い無い

必死に思い出せないその人を取り戻そうともがいて、見つからなくて。
もがき疲れてそもそも初めから無かったのだと諦めかけた時、唯一蘇った断片的な映像。

霞のかかった顔と
伸ばされた手を握る幼い自分

そんな僅かな愛された思い出にすがって、たった一人の肉親となった父と森の中で身を隠す様にずっと生きてきた。

半妖であるが故に恐れられ、疎まれ、妖力目当てに命を狙われ続けた。
生きていたければ他者と関わることは無理なのだと、いつしか自然に理解した。

森に身を隠し、胸の奥に孤独を隠し、自分自身さえもこのまま木々の緑に溶けてしまいたいと願った。
そんな終わりの見えない孤独な時間の中で、唯一手を伸ばしてくれたのが彼だったのだ。

彼が人ではないと気づいていた、いつかは他の皆と同じ様に自分の命を狙うかもしれないけれど、触れて知ってしまった温もりはどうしたって特別になっていた。


「私は貴方を襲う妖怪と同じ、貴方の不幸を願う者です。だから___私とあまり一緒にいると地獄へ引きずり落としてしまいますよ」

「不幸___?そんなこと...ないよ...」


彼女は声を震わせ否定する。


「不幸を願うなんて言って、いつも私に優しいもの」


その胸にどれだけの不安や孤独を押し殺しているのだろう、無理矢理作ったぎこちない笑顔にはうっすら涙が滲み肩は小刻みに震えていた。

必死に震えを隠そうと涙を流さない様に堪える姿は痛々しくすら感じる。


たった数歩、歩み寄って触れられたならその震えを止めることが出来るだろうか____

触れたい___触れてはいけない
守りたい___奪いたい
愛おしい___狂おしい

綺麗に取り繕う言葉なんて存在しない。
どうしようもなく醜い感情に、心はかき乱された。

そんな自分を必死に律しているのに、その目に僅かな理性までも根こそぎ奪われてしまいそうになる。


「貴方は私の醜さを知らないだけです」

「醜さ___?」

「そう、私がどんなに醜いか貴方には見えていない。今まで貴方を殺そうとした人や妖怪よりずっと酷い、恐怖からでも力欲しさからでもなく貴方の死を望む___冷酷な鬼ですよ」


敢えて冷たく突き放すように言った。

それなのに


「醜くも冷酷なんかでも無いよ...私には分かる、いつも助けてくれるその手はすごく優しいから。私を殺したいと思う人の手じゃない...さっきだって転けた私に駆け寄りそうになったでしょ?」


まるで信実を見抜いているかのように、真っ赤な曼珠沙華の色を映した大きな瞳で彼女は彼を見つめた。
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