□泣かないでいいよ
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時間が戻ればどれだけ良いのだろうか。

お盆を持っている両手が震えている。
どうしよう、とそれだけが頭の中で駆け巡る。



まだ空白スペースの多いアストラルにて、みかんはひとり固まっている。
今ココにはひとりしかいない。
自分を連れてきてくれた陰陽師の姿はココにない。
休憩に、少し席を外している。

目の前には原稿。
一心不乱に原稿に文字を埋め尽くしていく姿を見ていたみかん。
だから、休憩で席を外している間にお茶を入れ直そうと思ったのだが。
それが、悲劇を招いた。

倒れた湯のみと、零れ広がる中身。
見事なまでに原稿の文字は、お茶で滲んでしまっている。

どうしようとしても、どうもできない。
幼い頭では既にパニックに陥り、みかんは今にも泣きそうな顔である。


「おや?どうしたんですか、みかんさん」


ひょい、と扉からいつもの姿で猫屋敷の登場。
立ち尽くすみかんに怪訝を抱き、玄武もどうしたのかと視線を送る。


「みかん、さん?」

「ご、ごめんなさいぃ〜」

「え?えぇ??」


猫屋敷の声を境に、泣き出したみかんに、流石に猫たちも驚いたようだ。
朱雀が、みかんの足下で困ったように一つ、鳴く。

みかんの傍に猫屋敷が行くと、原因がすぐにわかる。
先ほどまで書いていた原稿が、ただのゴミになってしまったようだ。
猫屋敷は軽く、眉を下げた。


「みかんさん」

「…ふぁぃ……」

「火傷とかはしてませんか?」


猫屋敷がしゃがんでみかんと視線を合わせた。
すでに鼻の頭まで真っ赤にしているみかんは、最初何を言われたのかが分からず、見つめ返す。


「痛いところとか、ないですか?」

「う、ぅん……」

「それは良かった。じゃあ早く床を拭かないといけませんね」


雑巾を取りに行こうと猫屋敷が立ち上がる。
が、その着物の裾を、咄嗟にみかんが掴んで静止させてしまう。


「怒らない、の?」

「…えぇ」

「で、でもあんなに頑張って書いたのに、あたし、が……」


思い出して、また涙が流れる。
その雫をそっと拭う指があまりにも優しくて。


「失敗はして当然。みかんさんはまだランドセル背負った子供ですし、経験もまだまだ少ないですし…」

「関係ないよ。勝手にやったことで猫屋敷さんに迷惑かけちゃったんだもん!あたし……」

「私は、その気持ちが嬉しいですよ。駄目になった原稿だってまた書き直せば良いんですよ。幸い、書いたばかりで内容は覚えてますし。問題ありません」


みかんは知っている。
今のこのアストラルを支えているのが、猫屋敷なのだ。
家を出てきたばかりの自分では、まだ単独での仕事をもらえない。
陰陽師の執筆業が、今の自分らの生活も会社も成り立たせている。
その事実を。

だから邪魔したくなかった。
アストラルの社員として一人前になるまで、手間をかけさせたくなかった。
自分には、それしかできないから。


「本当にゴメンナサイ、猫屋敷さん」

「いいえ。これから少し少し、ゆっくりでいいから頑張っていきましょうね」


猫屋敷の穏やかな笑顔に、涙を拭って頷いた。



泣かないでいいよ
(大切なのは、小さくても足を踏み出すこと)























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