Novel

□ガラス越しの恋
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俺は、人生で一度だけ過ちを犯した。
愛する妻がいて幸せな毎日を、たった一度の激情で手放してしまった。
だからといって、その行為が間違っていたとはどうしても思えない。
俺にとっては、その人との一夜が運命のように感じたからだ。

その日を境に俺の生活は一変した。
狭々しい部屋に散乱するゴミの山。
煙草の煙と溜息ばかりが室内を満たす。
乱雑した室内に、愛する妻はもういない。
残されたのは錆付いた指輪と、僅かに涙で滲んだ手紙だけだった。

― あなたを愛するからこそ、私は消えます ―

自己犠牲の上に成り立った愛が、何度も俺を責める。
その上、運命の人とはあれ以来会うことも出来ない。

一度に沢山のものを失くした心は、満たされることない風穴を開けていた。
妻の笑顔も、あの時の熱も、全てが曖昧で気付いたときには何も残ってはいなかった。
俺は最悪なことに、妻よりもたった一度体を交えたあの女性にもう一度会いたいと願っている。

そんなあの人に、再会したのは、喫茶店のガラス越しだった。
店内のガラス越しに見た彼女は小さな女の子の手を引いて、笑っていた。
引き止めなければと思考が焦りだし、足が勝手に動き出していた。
心と体がちぐはぐに動いている感覚を引き摺りながら、彼女の手を掴む。

振り向いた彼女はあからさまに不機嫌な顔で言葉を続けた。

「あぁ?何おっさん」

彼女の唇がスローで動き、耳を疑う程の低音に身震いした。
確かに、男の声だった。
それが、俺にとっての三回目の運命の出会いだった。





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