明治東京恋伽〜めいこい〜

□ロマネスクレコード〜恋色夜叉〜発売記念
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「お、鏡花ちゃんじゃねぇか〜」

「げ。川上ぃ……」


とある日の昼下がり。
男姿の音二郎さんと神楽坂を歩いていると、向こうから見知った人影が歩いてくるのが見え、足を止めた。

その人影は、陽気に片手をあげた音二郎さんを見つけるなり、あからさまに苦虫を噛み潰した顔をして踵を返した。


「げ、とは何だよ、鏡花ちゃんよ〜。…って、ちょ!何で逃げんだよ?!」

「う、うるさい!付いてくんなよな、川上ぃ…!!」

「…付いてくんな、って言われると、追いかけたくなっちまうよな〜」


脱兎の如く駆け出した鏡花さんに、ニヤリと不敵な笑みを零すと、音二郎さんはその後を颯爽と追いかけた。


「…え、あ。……」


完全に置いてけぼりを食らった私は、小さく肩を竦めると、ゆっくりと彼らが進んで行った道を、追いかけるようにして歩き出した。





*****


そうしてしばらく道沿いに歩いていくと、どこからか犬の激しく吠える声と叫び声が聞こえてきた。


(…あ。この叫び声は……)


慌てて声の出どころを探すと、ちょうど傘張りのお店の横の通り、細い路地から声は聞こえてくるようだった。


キャンキャンキャン!


「うわぁぁぁぁ…!来るなぁ、あっち行けぇぇぇ…!!」


ウ〜…キャンキャン!!


「やめろ、あっち行けったらぁぁ…!!」


(……あ、やっぱり居た)


路地をソッと覗いてみると、そこには思った通り、鏡花さんが犬に吠えられているところだった。

犬――と言っても、子犬なのだが、鏡花さんは路地の奥で涙目になっていた。

何か犬の気を逸らすものはないかと辺りを見回すと、小振りの枝が少し先に落ちているのを見つけ、手にとる。


「ワンちゃん、ほらこっちだよ!」


おぼつかないながら、指で輪を作り口に当てて音を鳴らすと、幸いにも子犬はクルリとこちらを振り返った。

その目が私の手に握られた枝を捉え、子犬は尻尾を激しく左右に振った。


(こんなに可愛いのになぁ…)


犬を見るだけで怯えきってしまう鏡花さんには、子犬だとか成犬だとかは関係ないのだろうけど――。こんなに可愛い犬を見ると、少しもったいないなぁ…、という気がしなくもない。

私は手に持った枝を子犬によく見せてから、路地の奥とは逆方向――私が今歩いてきた大きな通りの方に向かって投げた。

子犬はそれを見ると、私の足元をすり抜けて一目散に駆けて行った。

安堵して路地の方を振り向くと、鏡花さんがちょうど出てくるところだった。


「あ、鏡花さん。大丈夫でしたか?」

「……っ。…べ、別に怯えてた訳じゃないからな!ただ、ちょっと…その……、良い感じの路地だと思って入ったら、子犬が帰り道を塞いでただけで…」

「そうですか」


久しぶりに会ったのにも関わらず、相変わらずな鏡花さん。
それがあまりにもいつも通り過ぎて。


「な…っ。な、なに笑ってるんだよ…!」

「ふふっ。いえ、何でもありません」


零れる笑みを必死に押し留めると、鏡花さんは不服そうにこちらを見ていた。





*****



「……あれ?そういえば音二郎さんは…?」

「はあ?川上ぃ…?」


一段落つき、ようやくその事実に思い至ると、鏡花さんは「あぁ、そういえば…」と小首を傾げた。


「途中までは追いかけてきてたけど、それがいつの間にか犬になっ……」

「……?あれ、犬は追いかけてきたのと帰り道を塞いでたの二匹居たんですか?」


私がそう返すと、鏡花さんはハッと口元を押さえた。


「……い、今のは冗談に決まってるだろ、ほんとアンタってグズだよね…!」

「…はぁ……」

「と、とにかく僕は知らないよ!川上のことだから、どっかで良い女でも、たらし込んでんじゃな…痛っ!」

「だ〜れが女をたらし込んでるってぇ?鏡花ちゃんよぉ…」

「あ、音二郎さん…!」

「か、川上…!!」


頭を押さえ、振り返った鏡花さんの視線の先には、仁王立ちになった音二郎さんが立っていた。


「俺はただ、うちの役者を見つけたから話してただけだっつーの」

「ふうん。ま、僕は知らないよ。川上の恋愛事情なんて知りたくもない」

「…へえー……。そんなに俺に冷たく当たって良いのか、鏡花ちゃん…?」


ふんっ、とそっぽを向いた鏡花さんに、音二郎さんは目を光らせて、自身の右手を持ち上げた。

――その手には、見たことのあるレコードのジャケットが握られていた。

空から落ちてくる花びらに、物憂げに天を見上げる鏡花さんと、辛そうに胸に手を当てる音二郎さんが印象的な、背中合わせに座っているジャケット…。

チラリと音二郎さんの持っているものを見た鏡花さんは、慌てて自身の袂をまさぐって真っ青になる。


「な、ななな何で川上がそれを持ってるんだよ…!!」

「ん?いや〜、鏡花ちゃんが走ってった後に道に落ちてたんだが…」


そこまで話すと、音二郎さんは意地の悪い笑みを浮かべて小首を傾げた。


「もしかして、これ、鏡花ちゃんのだったりするのかねえ…?」

「…っぐ」

「いや、まさか。あの鏡花ちゃんに限って、それはないわよね〜?」


ほら言ってみろよ、と言わんばかりに鏡花さんを煽る音二郎さん。


「ふ、ふんっ。…どうして僕が自分や川上のレコードを持ってなきゃいけないんだよ。僕のじゃないし、要らないよ、そんなものっ」


そっぽを向いて吐き捨てた鏡花さんに、音二郎さんは笑みをより一層深くした。


「…ふ〜ん?そうかそうか。いや〜、俺はてっきり優し〜い鏡花ちゃんが、コイツに渡す為に持ってたんじゃないかと思ったんだが…」

「ち、ちちち違う!ど、どうして僕がわざわざそんなグズの為になんか…!!」

「そ〜だよな〜。…うし。お前、後でこれと同じやつ俺が買ってやるよ。こ〜んな誰のものとも分からないやつはその辺に戻しとくか〜」


含み笑いをして、音二郎さんはそれを何処に置くかキョロキョロと見回した。

――すると、そんな音二郎さんの隙を突いて、それを鏡花さんが奪い取る。


「あ!何すんだよ、鏡花ちゃん!お前のじゃないんだろ?!」

「うるさいなぁ!別に、持ち主が居ないんなら僕が貰ってやろうと思ったんだよ!」

「はあ?! …は〜ぁ。ま、良いや。あーぁ、何だか今日は疲れちまったな〜。夜から一席あるし、そろそろ帰るぞ〜」


呆れて溜め息をつくと、音二郎さんは元来た道を戻り始めた。


「あ、待ってください、音二郎さん!」


私も慌ててその後を追おうとすると、手を取られ引き寄せられた。


「ちょっと待ちなよ!」


(……あ)


一瞬ふわりとした感覚があり、気付いたら鏡花さんの困ったような顔が間近にあった。


「鏡花さん…?どうかしたんですか…?」

「……あ、いや、その…。ほら、これ」


私の背中を支えていた腕が解かれ、もう片方の手で、先ほどのレコードが差し出された。


「…え?でも、これは鏡花さんが……」

「あ、別にあんたの為にあげる訳じゃないんだからね!?…ただ、自分で自分の持ってたって仕方ないし…。……それに、会えない時もあんたが僕をそれで思い出してくれたら…」

「……?鏡花さん、何か言いました?すみません、最後の方よく聞き取れなくて…」


ボソリと呟いた最後の言葉が聞こえず、彼の顔を覗き込むと、鏡花さんは真っ赤な顔で怒ったように目を反らした。


「な、何でもないよ!…それとも何。僕からのモノは受け取れないとでも言うつもり!?」

「そんな訳ないです。じゃあ、ありがたく頂きますね。…すごく嬉しいです。ありがとうございます…!」

「…!……あ、あぁ…」


『お〜い、早く来いよ〜!』


「…あ、もう行かなくちゃ。それじゃ、鏡花さん、また」

「……あぁ、また」


そう言ってフッと微笑んだ鏡花さんの顔は、とても優しい顔をしていたように見えた。

私は、踵を返すと音二郎さんの背中を追いかけた。



*****



ようやく隣に並んで歩き出すと、音二郎さんは夕暮れ空を見上げて溜め息をついた。


「あ〜ぁ。今日ももう終わりだな…」

「そうですね」

「あ、なあ。お前、そういえばこの間、俺の芝居観たいとかって言ってたよな?」

「…あ、はい!」

「今度よ、またデッケェ劇場で演目をやらせてもらえる事になったんだよ。もちろん、鏡花ちゃんの戯曲(ホン)でな」

「わぁ…!凄いですね!……あ、でも鏡花さんの許可は…?」


今までの前科を思い出し、少々不安になって問いかけると、音二郎さんは小さく笑って私の頭を撫で回した。


「わっ!?」

「大丈夫だ。今回はちゃーんと許可は取った。…なかなか骨は折れたけどな」

「そうだったんですか…!なら良かったです…!頑張ってくださいね!」

「あぁ!ありがとな。だからお前も、絶対観に来いよ。スゲエ舞台にしてみせっからさ!」

「はい…!」


本当に嬉しそうに笑う音二郎さんに釣られて、笑みが零れる。


長い長い坂の上。どこからか聞こえてくる三味線の音に、2つの影は楽しげにゆっくりとその長さを伸ばしていった――。

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