明治東京恋伽〜めいこい〜
□優しい場所
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「…全く大観も余計なことを……」
赤く染まる家路を歩きながら、小さく溜め息をつく。
*****
今朝学校に行ってみれば、岩絵の具と真新しい筆を押し付けられ、怪訝に彼を見ると「よぉ、春草!それ、やるよ」と展開も何もすっ飛ばした爽やかな笑顔に迎えられた。
そんな彼に怪訝な顔を向けると、あぁ、と彼は思い出したように言ったのだ。
「そういや、一番大事なことまだ言って無かったな。――誕生日、おめでとう春草」
*****
「ま、そろそろ岩絵の具も尽きかけてたし、丁度良かったんだけど」
夕暮れ時の親子を眺めながら、でも。と思う。
(あれは余計なお世話だ…)
帰り際に彼が言った一言。
「春草。きっと君にとっては、僕の祝いよりも大好きな彼女の祝いの方が嬉しいだろう?だから、また明日にでも、彼女とどんな風に過ごしたのか聞かせてくれ」
そう言って、彼は俺に反論を言わせる暇も与えず、帰って行った。
(…はぁ…。祝ってもらう保証も無いのに勝手だな。そもそも、あの鈍感な彼女が俺の誕生日を覚えているなんて、正直思えないんだけど)
ようやく見えてきた邸に、いざとなったら大観には適当に応えておこう、と気持ちを固め、知らず高鳴る胸を抑え込んだ。
――そう。彼女が俺の誕生日を覚えているはずなんかない。期待するだけ損だというものだ。今までだって、親にさえ誕生日を祝われた試しなんて無かったんだ。
表情をいつもの無表情にして、扉の取っ手に手を掛ける。何も無いならそれはそれで構わない。素知らぬフリをしていればいい。大観から思いがけず祝われてしまったから、舞い上がってしまっているだけで、何も無ければそれはそれできっとすぐに割りきれるはずだ。
一呼吸置いてゆっくりと扉を開き、最初に目に飛び込んだのは―。
ワサ――ッ
「……は…?」
色とりどりの、細かく千切られた紙切れだった。
「春草さん、ハッピーバースデー!!」
「春草、ハッピーバースデー!」
視界がやっと晴れると、訳の分からない言葉を叫んだ笑顔が二つあった。
(…これは、一応祝われてるんだろうか…?)
如何せん、彼女らの言った最後の方がサッパリ分からないから、定かでは無い。ただ、彼女たちが、この紙切れをかける為に俺の帰りを玄関で待っていたであろう事は容易に分かった。
どんな反応を取るべきか、立ち尽くしていると、赤髪の長身の男――鴎外さんは、両手を広げた。
「春草!お前の誕生日を、僕と子リスちゃんがわざわざここで待って、祝ったのだ!さぁ、感謝の言葉はないのかい?」
―やはり先程のは祝いを示す言葉だったようだ。
「あぁ、よく英語は分からなかったんですが…。そういえばそうでしたね。ありがとうございます」
「おや、春草。もしやお前、自分の誕生日を忘れていたのかい?」
「ええ。だって普通、生まれた日を祝うなんてしないですし。小さい頃からこの歳まで、祝われたことなんてありませんよ」
朝に大観に祝われた事は伏せておくことにした。実際、自分の誕生日なんて朝まで忘れていたのは事実であるし、特別な日だと思ったこともない。
すると、それまで黙って話を聞いていた芽衣が、つかつかと歩み寄ってきて俺の腕を掴んだ。
「………?…何」
「…って」
「……は?」
よく聞き取れなくて眉を寄せると、彼女は顔をあげたが、その顔は泣きそうに歪んでいた。
「そんなのって、寂しいです…!」
「………………何で?」
昔から、この国には誕生日を祝う習慣なんてない。西洋にはあるらしい…と風のウワサで聞いたことはあるから、ドイツ留学の経験がある鴎外さんや、西洋画風にも詳しい大観が祝ってくれるのは、別に不思議なことではない。
しかし、記憶喪失の…ましてや留学などしていないはずの彼女が、どうしてそんなことを気にしているのだろう?
俺が眉を寄せるのと、彼女が泣きそうな顔を一転させて、決意の籠った光を瞳に宿したのは、ほぼ同時だった。
「だって、せっかく歳を重ねるんですよ?それに。何年前かのこの日に生まれてこなかったら、お誕生日の人は今まで出会ってきたすべての人とは出会わなかったんですよ?…そういう奇跡に感謝をするのが、誕生日だと私は勝手に思ってるんです。だから――」
彼女は、そう話して俺を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「これからは、私が毎年春草さんのお誕生日をお祝いしますね!」
彼女の真っ直ぐな瞳が、それが偽りではないことを告げる。誰も頼んでいないというのに、随分な張り切りようだ。
「…はっ」
何故か――なんて、気にした自分がバカだった。どこまでも彼女はお人好しなだけなんだ。
彼女の志がバカらしくて嬉しくてくすぐったくて愛しくて。自然と笑みが零れた。
「な、なんで笑うんですか…?!」
「あぁ、いや。君がそこまで気合い入れる事でもないのに、変なやつだと思って」
「なっ…」
「……でも、ま、ありがとう」
*****
邸の中に入ると、いい匂いが漂ってきた。
「今日はフミさんと子リスちゃんが、腕を奮ってくれたのだよ」
そう言いながら鴎外さんがサンルームの扉を開くと、食卓の上には様々な料理がところ狭しと並べられていた。
「……随分気合い入ったね」
ほんとは嬉しいくせに、素直じゃない俺の冷たい言葉。でも彼女は、誇らしげに胸を張ってみせた。
「当然です!お誕生日ですから、やっぱり春草さんの為にご馳走を沢山用意しなくちゃいけませんし…!」
「…ふーん?俺はてっきり、俺の誕生日にかこつけて君が、そこにある牛肉とかご馳走やらを沢山食べる気で、多めに作ったのかと思ったんだけど」
「へ…?!そんなことありません…!!私、いつも言ってますけどそんな大食いじゃ――」
「へー?それはどうだか」
「ほらほら、仲が良いのは結構だが、早く席に着きなさい。パーティーが始められないではないか」
延々と続くかと思われた言葉のやり取りは、パンパンと叩かれた鴎外さんの手によって幕を下ろした。
俺たち二人が席に座ると、鴎外さんはにっこり笑い、踵を返した。
「…?鴎外さん、どこへ?」
「うん、ちょっと部屋にモノを取りに行くだけだよ。二人は先に食べていなさい」
そう言い残すと、鴎外さんは静かにサンルームから出て行った。