明治東京恋伽〜めいこい〜

□優しい場所
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*****


「…………ねぇ。鴎外さんが何を持ってくるつもりか、君知ってる?」


「いえ、全く」


煎茶を飲んでいる彼女に訊ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。

(ただのプレゼントならそれで良いけど…)

春草は、知らず背筋を滑り落ちる嫌な悪寒に、ブルリと身を震わせた。


「あ、そうだ。……春草さん、良かったらこれ」


この場から居なくなろうかと考えていた春草の前に、何かが突き出された。
顔をあげて受け取ると、それは小さな小瓶だった。よく見ると中には青い粉末が入っている。


「前に春草さんのお部屋にお邪魔した時に、使ってたのを思い出して。岩群青…でしたっけ?これで、紫陽花描いてくれましたよね。あの絵、大事に部屋に飾ってあるんですよ。それで、その減らした分、って言ったら何ですけど、春草さんなら使える物の方が良いかと思って…」


「…………」


「…気に入らなかったですか?」


不安げに揺れる目を捉えて微笑する。


「いや。ありがとう。ただ…」


「ただ…?」


「ふっ…大観と同じものだと思って」


「え。それって――」


「子リスちゃん、春草!待たせたね!いやはややはり祝い事にはこれが欠かせないと思ってね!」


彼女が言葉を続けようとした時、扉が勢いよく開き、少し前に姿を消した鴎外さんが現れた。
その手には―――。


「……やっぱり…」


――葬式饅頭の入った箱が。

げんなりと肩を落とした春草の視線を折った芽衣の顔からも、それを見るなりサァッと血の気が引いた。

(…やっぱり逃げておくべきだった)

今さら後悔したって遅いのだが――。


「…ん?あぁ、何だい子リスちゃん。もう春草に渡してしまったのかい?どうせなら饅頭茶漬けと共に渡してもらおうかと思っていたのだがね」


春草の手に包まれる小瓶に目を止めると、彼はいささか残念そうにしたものの、すぐに気を取り直して自分の席に腰を下ろした。


「あ、あの、鴎外さん…?」


逃れられないと分かっていても、足掻かずにはいられない。春草は、茶碗にご飯をよそい始めた手を恐怖の眼差しで見つめた。


「うん、なんだい?」


「あ、えーとですね、俺としては、頑張ってくれた彼女にこそ沢山食べて貰うべきではないかと…」


「ははは。何だ、そんなことかい。安心しなさい、春草。お前がそんなに心配しなくとも――」


そう言いながら鴎外さんは、煎茶を心持ちいつもより大盛りのご飯と饅頭にかけていく。
そうして三人分の椀にかけおわると、彼はにっこりと微笑んだ。


「――今日は、春草の誕生日を記念して、特別に大盛り饅頭茶漬けにしておいたのだよ!」


((うわぁ……))


キラキラと子供のように笑う鴎外さんに比べ、饅頭茶漬けはいつ見ても、見た目からして凄まじい。
なのに何ということだろう。

(見ただけで目眩が……)

テカテカと光る米粒。ドロッとふやけた薄皮。溶けかかった餡と煎茶が混じり合い、何とも微妙な色の、液体になりきれていない液体。
それらが茶碗の中で中途半端に混じっている様は、まるで週末の銀座の人混みのようだった。

言葉も出ず、ただただ茫然とする二人の様子に、作った張本人は満足そうにうんうん、と頷いて、作ったうちの2つをそれぞれの前に置いた。


「さぁ、食べなさい」







*****


コンコン


「はーい」


ガチャ


「……あ」


入ってきた人影に私は息を呑んだ。
次いで、どうしてクセで返事を簡単にしてしまったのか、とひどく後悔した。

人影は、ベッドに腰掛けていた私のそばまでズカズカと歩いてくると、目の前でピタリと足を止めた。

(…や、やっぱりすごく怒ってる……!)

そろ〜りと視線を上げると、私を見下ろす冷ややかな目と視線がかち合った。

(ひぃっ……!)


「……君さ」


「は、はい…!」


殺される――反射的にそう感じ、私は体を硬く強張らせた。
しかし人影は、何をする事も無く、私の返事にため息をついただけで、ストンと隣に腰を落ちつけた。


「…はぁ……」


「あ、あの、春草さん…?」


恐る恐る人影――春草さんに声を掛けると、彼は眉尻を下げて諦めたように笑った。


「あぁ、良いよ、別に。怒ってないって言ったらウソになるけど、フミさんが忘れ物してしまったのは仕方のない事だし」




あの時――。



目の前に茶碗を置かれ、逃げられない事を悟った私たちは、揃って顔を見合わせると、潔く諦めて茶碗に手を伸ばした。
その時だ。

玄関の方から物音がして行ってみると、そこにはもう帰ったはずのフミさんが居た。


「申し訳ありません。少し、忘れ物をしてしまいまして…」


心から申し訳なさそうに謝ったフミさんに鴎外さんは笑いかけると、快く家の中へと招き入れた。




「しかし、フミさんが忘れ物とは、珍しい事もあるものだなぁ…」


台所に入っていくフミさんの背を見ながら呟かれた言葉に、フミさんは小さく苦笑した。


「私も人間ですから。たまには忘れ物くらいしますよ」


目につく棚の辺りを見回しながらフミさんは返答するが、忘れ物が見当たらないらしく、今度は足元の棚を順に開き始めた。


「あ、フミさん、探し物、捜すの手伝いますよ」


なかなか見つからない探し物捜しに買って出ると、フミさんは「ごめんなさいね」と申し訳なさそうな嬉しそうな笑顔を浮かべた。
その様子をしばらく眺めていた鴎外さんだったが、やがてふむ…と顎に手を当てた。


「では、僕たちはあちらで待っているとしようか。女同士の方が捜しやすいだろうしなぁ。せっかくの饅頭茶漬けも冷めてしまう。あぁ、子リスちゃん、子リスちゃんの分は――」


「あ、私なら大丈夫です!」


予定外に、饅頭茶漬けから逃れられるかも知れない――と考え、私は至って軽く、忙しい合間に返答したように応じた。


「うむ、そうかい。なら、子リスちゃんにはまた今度作ってあげるからね」


鴎外さんは、饅頭茶漬けが待ちきれないのだろう、私の返答に素直に応じると、


「さぁ、春草。僕たち男組はおいとまするとしよう。さっそく饅頭茶漬けを食べながら子リスちゃんを待とうではないか!」


春草さんに向かって両腕を広げてキラキラと輝く笑顔になった。


「……え。い、いえ、その、あー、俺も手伝った方が良いかなー…?」


一方、春草さんの方はひきつった笑顔を貼り付かせながら、満面の笑顔から視線を逸らして、台所へ入りかけた。
が、その肩を鴎外さんは逃さないとばかりにはっしと捕らえると、クルリと体の向きを変えた。


「はははっ。春草もようやく紳士らしい振る舞いが板についてきたようだね。だが、女性だけの方が良い場合もあるだろう?…さ。友人の頼みに付き合うのも、紳士の役割だ」


「いえ、俺は別に紳士になるつもりは―」


「よーし、春草!子リスちゃんが戻ってくるまで、饅頭茶漬けパーティーといこうではないか!」


「………………?!」


言葉を無くし立ち尽くす春草さんを半ば引きずるようにして、鴎外さんは春草さんと共に遠ざかって行った。




*****


「……すみませんでした…」


再び思い出し、項垂れる。


「……ま、良いよ。あぁ、それよりさ」


項垂れていた頭を持ち上げて見ると、春草さんは不思議そうな顔をしていた。


「気になってたんだけど、あのフミさんが忘れたモノって何だったの?」


「あ、写真です」


「……写真?」


訝しげな表情をした春草さんに、フミさんから聞いた話を教える。
すると彼は、驚いたように目を見開きポツリと呟いた。


「…知らなかった。フミさんに息子さんが居たんだ」


「みたいです。私もさっき知りました」


「で、つまりは、息子さんが今夜久し振りに家に帰ってくるから、幼い時の写真を見せるつもりだったけど、普段は家事の合間に見ているから、どこに置いたか分からなくて捜しに来た、って事だよね」


「はい」




*****


「えぇっ?!フミさん、息子さんが居たんですね…。まだ若いのに…」


「そんなことありませんよ。だってほら。どこに置いたか分からなくなるくらいには、ボケてるんですもの」


そう言って、フミさんは少し照れたようにはにかんだ。



*****


「で?結局見つかったの?」


「はい、もちろん。フミさんが普段使ってるエプロンのポケットの中に」


「へぇ」


「写真の中で、小さな息子さんと笑っているフミさん、すごく楽しそうでした」


「……そうなんだ」


声のトーンが落ちた気がして春草さんを見ると、彼の表情はどこか寂しそうだった。

(…もしかして)


「あの、春草さん」


「…ん?」


「もしかして、饅頭茶漬けを食べ過ぎて具合が悪いんですか…?!」


「……は?」


――真面目に言ったのに、ポカン…と返されてしまった。
しかし、数秒の後、彼は小さく吹き出した。


「なにそれ。…鴎外さんに言ってみようか?君が『饅頭茶漬けを食べると具合が悪くなる』って言ってた、って」


「や、止めてください…!!」


慌てて止めると、彼はフッと笑った。
まるで良いことを思いついた悪戯っ子のように。


「さて、どうしようか…?君から口づけしてくれたら考えてあげても良いけど」


「……!!」


「ほら、どうするの?早く決めなよ」


からかうように顔を覗き込まれる。


「しゅ、春草さん、怒ってます…?」


「さぁ?」


「で、でも春草さん、さっき『饅頭茶漬けの事なら別に気にしてない』って――!」


「そう思ってたけど。君が何だかんだ気にしてるなら話は別かと思って」


「そ、そんな……ヒドイ…」


「ヒドイのはどっちだか。君と出会ってこのかた、俺をこんなに夢中にさせておいて、心配させるし迷惑掛けてくるし、しかも君から口づけしてくれた事すらないよね?」


「……ぅ…」


正論を並べられ、返す言葉を失う。


「……それで?どうするの…?」


ジッと見つめられ、恥ずかしくて視線を彷徨わせると、頬を挟まれて顔を戻された。
そこには瞳を細めて笑う春草さんの顔があった。

――ずるい。そんな顔されたら、断る事なんて出来るはずがない。


「〜〜〜〜……!!!!」


催促する瞳からは逃れられず、半ばヤケになって彼の唇に、軽く自身のそれで触れた。
それだけで触れた部分が熱を持つ。

顔から火が出るんじゃないかと、すぐに唇を離してキョリをとるため身体を元の体勢に戻した。が、その背中に手が回され、再び離れたばかりの唇と唇が触れ合った。


「あっ――…」


私の、触れるだけの口づけとは違う、甘く深い口づけ。
ともすれば意識ごと持っていかれそうな、長くて優しくて激しい口づけに、必死に彼の背にしがみついた。


「……ん、ふぁっ」


「…悪いのは君だよ。全部。…でも、そんな君が好きだから。悔しいくらいに」


「……私も、好きです」


きっと私は、真っ赤な顔をしているだろう。
小さな口づけの降る中、そのままゆっくりとベッドに押し倒された。

背中にベッドの質感を感じながら、春草さんを見上げる。


「――君、罪悪感があるんだろ?…もしそうなら、君の分まで食べた俺のワガママ、聞いてくれるよね?」


「―――っ!」


かぁっと頬が熱くなる。
見抜かれている。
艶めいた、けれどどこか懇願するような響きに、私は恥ずかしいはずなのに、彼の瞳から視線を外すことが出来なかった。

ギシッとベッドが軋んだ。


「……答えない、って事は、肯定って受けとって良いのかな」


「……………はい


小さな小さな声で返事をすると、彼は瞳を細めた。


「……潤んだ瞳も綺麗だね。薔薇色の頬も」


そう言って、彼女の熱くなった瞳の端、頬、首筋――ゆっくりと順に口づけを落としていく。

触れる度、ピクリと身体を震わせ、熱っぽい視線で見上げてくる。
迷子の仔猫のような、儚い彼女。少し目を離せば居なくなるくせに、またすぐに寄ってきては楽しそうに笑うのだ。


「……俺は今でも、目を離せば君がどこかに行ってしまうんじゃないか、って不安なんだ」


動きを止め、無防備な彼女の横に寝そべり横抱きにする。情けない姿を見られたくなくて、彼女を自分の胸の中に抱いた。

零れ落ちた本音。

彼女はどこにも行かないと、分かっているはずなのに、心の奥底では、ある日突然消えてしまうんじゃないか、と不安がいつも燻っている。

すると彼女は、まだどこか潤んだ瞳のまま顔を上げ、フワリと笑って手を俺の頬に添えた。


「大丈夫です。私は、ほら。こうしてここに居ます。これから先も、ずっと。春草さんのそばに居ます」


「…ありがとう」


安心させるように穏やかに聞かせられた言葉に、すぅっと少しだけ心の中の燻りが晴れていくのを感じた。

彼女の背中に回した手に力を入れ、さらにきつく引き寄せると、ゆっくりと唇を重ねた。
先程までよりも長く、深く、優しく包み込むように。
あたたかい吐息が混じり合い、互いが確かにここに存在している事を実感する。



――静かな部屋の片隅で、どこからか猫の鳴き声が にゃあ と聞こえた気がした。
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