書評・熱闘篇

□『上杉謙信』
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 上杉謙信という人物を考えるとき、何を想像するだろうか。『義に篤い』『とにかく戦が強い』『生涯独身』などが挙げられると思う。謙信のある種、懐古主義的であり、ミステリアスな雰囲気は今っぽい言葉を用いれば“萌え”の対象にすらなるであろう。因みに私の謙信のイメージは、『頼まれたり、頭を下げられたりするとイヤと言えないお人よしの親分』である。
 では、果たして本当にそうなのだろうか。実は今現在、巷で流布している謙信のイメージは江戸時代以降、軍記物の中のイメージとして広まったものである。では実際はどうだったのか。当時の資料のみを使って検証したのが本書である。
 当時の越後は、自立した小領主(国人)が割拠する地域であった。謙信の出自の長尾氏はこの点で見れば、越後守護代という分で頭一つ抜け出ているかもしれないが、結局は同じであるといえる。なので、長尾氏は他領主を自身の配下に組み込むよう、行動することになる。ここで挙げられているものは、自身の発給する文書に署判者として有力領主を巻き込むことによって、自身の権威付けと他領主との協力体制をアピールすることと、朝廷から冠位を貰うことによって、越後国内での自身の優位さをアピールすることであった。ただし、署判者を置くということは、“越後地域連合政権”以上のものになりえず、(晩年の越中・能登の征服・支配体制が、新体制に脱皮する機会であったかも知れないが)それが謙信の政権の限界であったといえるだろう。そういう点では、謙信の後を継いだ上杉景勝が会津に移封され、配下と共に本貫の地と切り離されることによって、はじめて近世大名の道を歩みはじめたといえる。
 最後に、北条高広や本庄繁長など、謙信の配下は裏切りと帰参を繰り返していることについて私見を挟んで良いのなら、謙信の配下は基本的に越後地域の領主であり、謙信に謀反をしたとしても自らの領地から離れられないので、結果として『帰参するよりない』というのが実情ではないだろうか。

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