長編小説〜Double Helixシリーズ〜完結
□贖罪
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ギャァッと鳴いて、バサバサッと鳥が飛び立った。
キルアは思い出したように、ブルッと身震いした。
いつしか降り出した雨に、全身が濡れていて、身体が冷えきっていた。
気が付けば、キルアはあの「秘密の場所」に辿り着いていた。
雨の中、暗闇の中で、キルアはあの爽やかに吹き抜けた風を思いだそうとした。
思えばここから全てが始まった。
クラピカの、冷たい視線に歯軋りしたのも、柔らかな笑顔に頬が熱くなったのも、この場所だった。
『ああ、そう信じてる。』
『ありがとう、キルア。』
『いつでも聞きに来い。
私はお前達のチューターだ。』
花の様に微笑んだクラピカの笑顔が鮮明に甦る。
しかしその笑顔は、直ぐに冷たい雨にかき消され、目の前の茫洋と広がる漆黒の闇に飲み込まれてしまった。
キルアはガリリッと歯軋りすると、その場を走り去った。
カツン…、
…
…
カツン…、
窓に何かがぶつかる音がする。
先程から降り始めた雨が窓に当たっているのだと思っていたが、雨粒より音が固いのに気付き、クラピカは読んでいた本を伏せると、開け放したカーテンの窓の外の暗闇に目を凝らした。
「キルア?」
クラピカの部屋の前に張り出しているブナの大木の枝の上に、朧気ながら銀髪が見えた。
クラピカは慌てて駆け寄ると窓を開けた。
「どうした、お前、こんな雨の中…、」
そこにはやはり、びしょ濡れのキルアが居た。
制服の所々が泥かなにかで汚れている。
俯いている所為で、その表情は見えない。
クラピカは一瞬考えた後、声を掛けた。
「…とにかく、こっちに来い。
そんなところに居たら、風邪を引くぞ。」
キルアは何も言わず暫く枝の上に身を屈めていたが、何度目かのクラピカの呼び掛けに、枝を蹴って窓枠に飛び移った。
「一体どうしたんだ?
何故こんなに汚れている。
あの後、ハウスに帰ったんだろ…」
「…メン。」
「?」
いつもと違うキルアの様子に心配しながら、身体を拭くタオルを探していたクラピカに、キルアのか細い声が聞こえた。
クラピカはタオルを持って、突っ立って俯いているキルアの前に立った。
「何だ?」
「……ゴメン……。
…俺、知らなかった…。」
雨脚が強まり窓に打ち付ける雨音が一際大きく部屋に響いた。
「…何でアンタが俺を避けるのか…、判らなくって、
勝手に頭きてて……。
でも、…でも、本当に、
ゴメン……。」
クラピカの手から、タオルがパサリと床に落ちた。
「…お前、何を…、」
「もう…、いいんだ…。
謝って済む事じゃないって判ってるから…、けど、俺…、」
泥で汚れた顔を上げたキルアの大きな蒼い瞳から、雨の雫ではない水滴が溢れて落ちた。
「クラピカ…、俺、…アンタに、ただ…、
…謝りたくって……、」
キルアはそこに立ったまま、ギュッと両手の拳を握り締めた。
ポタポタと水滴が床に落ちる。
「…キルア…、
とにかく身体を拭け…。」
クラピカは落ちたタオルを拾い上げると、キルアの方へ向かおうとした。
「……もう、俺に…、関わらなくていいから…、
本当に……、」
絞り出す様にそう言うと、キルアはまた窓から向かいの枝に飛び移った。
そして、暫くの間向こうを見たままじっとしていたが、僅かに振り返ると、白い唇が小さく呟いた。
「いろいろ…、…ありがと…。」
そして、キルアはそのまま暗い森へ消えて行った。
夕闇の中、濡れた蒼い瞳から、欠片が零れ落ちるのを、クラピカは、ただ見詰めるしかなかった。
「キルア?」
そっと窓から部屋に入ると、ゴンがベッドの上で身を起こして声を掛けてきた。
「今日、クラピカと応援しに来てくれたんだって?
折角みんなで一緒に祝勝会やりたかったのに、何処行ってたの?」
部屋には、いつもは無いお菓子やらジュースやら紙リボンが付いたクラッカーが散らかっている。
きっと遅くまで同僚と大騒ぎしていたのだろう。
部屋にはまだ熱気の名残が籠もっている。
「ゴメン…。
ゴン、良かったな、おめでとう。」
キルアはゴンに背を向けてベッドに座るとそう言った。
「うん!ありがとう!
なかなかだったでしょ?
あのゴール!」
「ああ、ホント凄かった。
みんなすげー喜んでた。」
「そっか〜!
キルアにそう言われると、スゴい嬉しいよ、俺!」
「明日たっぷりお祝いするからさ。
今日はもう寝よーぜ。
お前も疲れてるだろ?」
「うん、そうだね!
じゃおやすみ、キルア!」
「ああ、おやすみ。
本当におめでとう、ゴン。
…クラピカも、おめでとうって伝えてくれって…、」
ゴンが満面の笑みを返すのを、キルアは背中で感じていた。
キルアの語尾が微かに滲むのに、ゴンは気付く筈も無かった。
暫くするとすぐにゴンは寝息を立て始めた。
キルアはゴンがあちら側に寝返りを打ったのを確認すると、ベッドからこっそり抜け出して、そっと荷物をまとめた。
そして、ゴンが酷く羨ましがっていた、宝物のサッカー選手のサイン入りポートレートを暫く眺め、ゴンのベッドサイドにそれを置いた。
『ごめんな、ゴン。
ホント、おめでと…。』
そしてキルアは、また強くなり出した雨の中へ、独り歩き出して行った。
後ろ手にドアを閉めると、即座にクラピカは切り出した。
「どういう事だ。
私を避けていただろう!」
クロロは少し面食らった顔をして、苦笑しながらクラピカを部屋に招き入れた。
「…久しぶりに俺の部屋に来てくれたのに、藪から棒だな。
ちょっと具合が悪くて休んでたんだよ、明日からはちゃんと授業に出る。」
怒った表情が微かに心配そうなそれに変わる。
クロロはそれを見届けると、笑顔を浮かべた。
「まあ座ってよ。
ちょうど良い、美味しい紅茶が手に入ったんだ。」
そう言って、クロロはキッチンに姿を消した。
あの晩キルアが去ってから、クラピカは酷く胸騒ぎを覚えた。
恐らくキルアは知ってしまったのだ。
その事以外にキルアがあんな態度を取る理由を思いつかない。
そして、それを伝えたのはクロロしか居ないと、クラピカは確信していた。
翌日、学内にキルアの姿は見えなかった。
放課後、ゴンを見つけて尋ねると、昨晩以来姿を晦ましたと言った。
『クラピカと一緒に応援来てくれたって聞いてたから、クラピカは何か知ってるんじゃないかって思ってたのに…、』
そう言ってゴンは涙ぐんだ。
とにかく本人に確認しなければと、クラピカはクロロを探した。
いつもなら図書室で一緒になるはずなのに、学校の特別な用だとか何とかの理由で、代理の教師がやってきていた。
クロロの担当する歴史の授業も代理の教師が教壇に立っていた。
そうしてクロロに会えないまま数日が過ぎていった。
見つかったら大事だが、クラピカは意を決して、夜中にクロロの部屋を訪れ、今に至る。
「で、どうしたの?
そんな怖い顔して。」
クロロは繊細な造形が施されたチャイナボーンのティーカップをクラピカに差し出し、自分は愛用のマグカップを手にして、クラピカの向かいのソファに身を沈めた。
「…キルアが学校から居なくなった。」
「そうみたいだね。
実家に戻ったんじゃないの?」
クラピカは僅かに眉をひそめた。
「クロロ……、お前知っているんだろう?」
クロロはマグカップを持って、脚を組んだ。
「何を?」
クラピカの口調に苛立ちが滲んだ。
「しらばっくれるな、クロロ。」
琥珀の瞳が、射千玉の瞳を捉えた。
「…何故、あのガキに執着する?」
ゆらりと射千玉の奥深くに黒い焔が立ち上がる。
「執着?
彼は私がチューターとして受け持った後輩だ。
居なくなって心配しない方がおかしい。」
クロロは何も言わず、マグカップに口を付けた。
「キルアに…、話したな…?」
微かにクラピカの声に力が籠もる。
何も言わないまま、クロロはふと視線を逸らすと、席を立って窓際に佇んだ。
沈黙は肯定を意味していた。
「…ゾルディック家を、俺は許さない。」
ポツリとそう言うと、クロロは厚い深緑のピロードのカーテンを握った。
「アイツが、のうのうとこの学園で生活しているのも、無神経にお前と話したりしてるのも、全部許せない。」
「やっぱり、お前…、」
クロロは握り締めていたカーテンから手を離すと、寂しそうな顔を向けた。
「思い出させる様な事してゴメン…。
でも…俺はもう、お前が辛い思いをするのはイヤなんだ。」
クロロは窓の外に目をやると、もう一度、噛み締める様に言った。
「もう二度と…、お前に辛い思いをさせたく無い…。」
ガラス越しに、視線を落とし苦痛に歪む表情のクロロが映っていた。
サワサワと風が木々の梢を揺らす。
「…お前が、苦しむ事はない。」
「!?」
驚いてクロロはクラピカを振り向いた。
「私は、もう、お前を恨んではいないよ…、クロロ…。」
クラピカは、柔らかな表情で座って居た。
その声は、とても穏やかだった。
椅子の背もたれに掛けたクロロの手が、僅かに震える。
「…クラ…ピカ…。」
「知っていたんだ、ずっと前から…。」
クロロの瞳が零れんばかりに大きく開かれた。
「…知っ…て……、」
自分でも驚く程、声が弱々しく掠れている。
クロロは思わず口を片手で覆った。
「だから、私の為にお前が罪滅ぼしをする事は無い。
私は、もう…大丈夫だから…。
もう、十分、感謝してるから…。」
そう言って、クラピカはそっと席を立つと出口に向かった。
そして、ドアノブに手を掛けて動きを止めた。
クラピカは、ゆっくり振り返ると、呆然と立ち尽くすクロロに微笑んだ。
「もう、自由になれ、クロロ。」
パタン…
クロロは暫く立ち尽くしたまま、閉ざされた扉を見詰めていた。