小説〜Another Editions〜

□Be My Valentine
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教皇ゲラシウス一世の宝が、保管庫の改修に併い、短い間だが展示される事を知ったのは随分前の事だった。
俺は、僅かばかりの期待と、根拠のない確信を胸にこの場所を訪れていた。

ドゥオモを擁するこの大広場から見上げる空は、朝から今にも雨になりそうな曇天で、そういえば昨夜気象予報士が、今日の天気は雨から霙に、場合によっては雪になると言っていた事を思い出した。
時折、底冷えのする石畳を冷たい風が吹き抜ける。
誰もが皆、暖かそうなダウンジャケットや、帽子や手袋、マフラーを身に付け、それでもこの国の気質なのか、観光客がそうなのか、オープンカフェはどこも盛況で、寒空の下、人々はエスプレッソを飲んだり挙げ句の果てにはジェラートを食べている者も多かった。
四方に聳えるミナレットを仰ぎ見ると、そこには天使と悪魔がせめぎ合う様が生き生きと彫られている。
展示場はこのドゥオモに隣接する大広間に設営されている。
カフェで飲んだホットワインの暖かさも、あっという間に冷めてしまった。

『やはり中へ入るか…。』

俺は広場を横切り展示場へ向かった。
まだ開場には随分時間があったが、入口には何十人かの人の列ができていた。

広場もそうだったが、会場もカップルが目立つ。
今日がルペルカーリアだからなのだろう。
装飾品の間を抜け、彫刻品の間に入る。
精緻な大理石のトルソーを眺めながら、俺は触れた事のない肌を想った。
白く虚ろなその眼にあの緋く燃える瞳を与えたら、どんなに美しいだろう。
イヤ、俺は頭を振った。
あれは、あの存在にしか成立しない美しさなのだ。
バランスを欠く危うさと脆さ、頑なさと強さ。

それにしても、人が多い。
外が寒すぎるからだろうか、特に目玉があるわけでも無いのに、狭い会場は肩が触れ合わないとすれ違えないほどごった返していた。
俺は酷く疲れてしまい、たまたま空いていた絵画が飾られた部屋の隅に据え付けられた赤いビロードが剥げかけたソファに腰掛けた。
できることならこの場を立ち去り、ゆったりとしたチェアのあるカフェで寛ぎたかったが、それでも諦めつかず行き交う人々をぼんやり眺めていた。
そういえば、よくマチに、俺の勘は当てにならないと諦められた様な表情で言い捨てられていた事を思い出す。
今日は一日中ここで待ってみるつもりだったが、やはり俺は堪え性がない。
それでも小一時間はそこに座っていたが、警備員が座ったままの俺に警戒しだしているのを感じ俺は席を立った。

『あ〜あ、やっぱ来るの止めときゃ良かった…。』

俺は半分落胆し、半分悲しい気持ちで出口を出た。
出口からはすぐ広場にも出れたが、俺は少しでも人混みの無い方の回廊を抜ける順路を選んだ。
途中の部屋に常設展があり、通り過ぎる際、一瞬部屋に目を送った。
俺は、目の端に部屋の一番奥にあるそれを捉えた。
全細胞がそれに呼応する様に沸騰する。

あぁ、守護聖人、今日だけはあなたに心から感謝します!

凛然とした佇まい。
細く流れる様な金糸。
白く輝く肌。
これだけ離れていても、後ろ姿だけで分かる。
クラピカ…

「バレンティーノに?
それとも画家に?」

俺はそっと近寄り背後から君の耳元で呟いた。
予想に反し肩が僅かに反応しただけで、君は俺を振り返りもせず冷静な声で呟いた。

「かつては異教徒として迫害され、殺されてから守護聖人と崇められた人間の顔を見てみたくてな。」

「それで?
どう思う?」

ちらと琥珀色の瞳が俺を捉え、またバレンティーノに移る。
バレンティーノは聖書を片手に慈悲深い表情で優しく盲目の少女の額に手を置いていた。

「何も…。
何の感情も読み取れない。」

クラピカは俺に構わずきびすを返すと、広場へ向かった。

「展示会は見たの?」

「見た。」

「そう。偶然。
俺も居たんだけど気付かなかったな。」

ってどういうことだよ、俺!
まさか見逃した?!

「入ったんだが、人が多すぎて…。」

あぁ、人酔いしたんだね。
君は俺が一緒に居る事を咎めもせず、並んで広場を歩いていた。
冷たい風が吹き抜け、粉雪がパラパラと顔に当たる。
君はコートの襟元を掻き合わせた。
表情を盗み見ると青白く口唇だけが赤かった。
広場の真ん中まで歩いた辺りで、君は突然石畳に躓き、俺は咄嗟に左手でその身体を抱留めた。
驚いた君の視線が俺の心臓を射抜く。
どちらとも無い鼓動が伝わる。
俺は務めて冷静に言った。

「疲れている様だ。
少し休んでいかないか?」

君はまた何の抵抗もなく頷いた。
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