私は

多少未熟児で生まれました。
何をしても人一倍鈍く一番最後
食も細く学校給食では割り振られた量の給食は時間内に食べきれずに給食後の掃除の真っ最中埃が舞散る中食べる事になってしまっていました。
【今思えばなんと不衛生な状態…】

多少クラスではつま弾きのいじめられっ子でした。
【あの位昔からイジメが有ったのは確かだ…その世代が今や時代の主流イジメが問題化しているのは当り前だと思います。】

その後
自宅が【火事】
知らない間に追い出され、流転の毎日を約2年間

父の転勤で、中学3年3学期に転校
【高校入試真っ只中…最悪】
転校し公立への進学は絶望…【酷い話だ】
年内に枠組みを作り受験者を既に決め後からの受験申請は認めないシステムだったそうです。
やむなく私立の商業科を受験…合格はしたものの勝手に普通科に廻された【あの時は受験校にも幻滅した】
がしかし、入学後に入試結果が良かったので普通科にと【なんなら特待生にでもしてくれ自宅が火事にあい家計は火の車だったのだから】

とまぁ〜
色々合ったが高校、短大と順調?に取り敢えず問題なく月日は流れた。

また地元に戻ってこれた。
両親が地元に隣接市に細やかなる土地を購入して家を建てたので、父の定年前に家族が一人…また一人と地元に戻って一家で穏やかに過ごせる時期が来ました。

そして私は結婚して実家を離れました。

その後弟も結婚
がしかし、両親との同居を完全拒否した弟の奥さんは自分の親の近くに家を購入してしまいました。
何かにつけて弟夫婦は、【子が小さいから…】と言い訳して一族の旅行の話も断り続けて来ました。
【要するに、旦那側の親族とは関わりたくない】との確固たる意思表示だったのでしょう。

そして父の死
余命3ヶ月と医師に宣告された事実を母は私には話さす隠していました。
父が突然意識不明で救急車で搬送された病院が癌専門の病院で、直に私は医師に尋ねたところ【余命3ヶ月】だった事を聞き愕然として、医師も多少母には呆れ果てていました。
実の子供達にも隠していた?と。

救急車で搬送され1ヶ月後に父は逝きました。

少し早い旅立ちだった様に感じました。
余命3ヶ月と母から聞いていたらもっと父と何処か出掛け楽しい時を共に過ごしたかったと…母には今でも告げてくれなかった事に対して口惜しさがあります。
そして…
弟の

失踪 死

まぁ失踪してから半年という時間があり弟の死を無意識に理解していた部分があり、7ヶ月後に弟の白骨化遺体発見の知らせを頂いた時には私自身安堵しました。

【お帰りなさい、ゆっくり休んでくださいね。】と

以上私自身の廻りの事

私は結婚してからは、
かなりの精神的ストレスで、心が壊れました。
今も完治はしていません。
【正気な振り】をしているだけです。
その挙げ句に【心臓疾患である狭心症】になりました。
胸痛は…【珈琲の飲み過ぎ】と吹聴され毎回また飲み過ぎか?とよくいわれました。まあ、私はストレスで逆流性食道炎になり、胃にポリープも出来ましたからね。
あぁ〜死んだ弟にも【そんな狭心症など救心のんでりゃ治る、大袈裟な…】と。

今は、私の家族4人
バス旅行やバイキング、各お花見等々家族で沢山の楽しい思い出を今…

そして今また家族から見放され

細々と3人で慎ましやかにストレスに支配されて生きています。





季節は巡り


また

変わらず華は咲き乱れる


然し あの人達はいない

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