STORY = B

□Degradation(瀬戸内)
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ふわり、そよぐ風が髪と装束を乱す。

今は海風が憎い。

開け放たれた縁側に満ちる潮の薫りが、いらぬ過去を思い起こさせるのだと、知っていた。

ぼけら、とその場に居座る偉丈夫にかつての覇気は無い。

片方だけの瞳の先には柔らかな海。

この海を越えた九州で起きた先の戦がこの男を変えたのだと、誰が疑う事もなく事実は事実として其処に在る。




敗走した父の後を追う形で土佐に帰ってきた長曾我部が長男には、首が無かった。




互いに主力を削り合った戦である。
相手方の一将との相討ちにて果てた、らしい。


「貴様の倅にしては過ぎるほどの武勇ではないか。流石はあの魔王を絆しただけの事はある」


長曾我部信親の『信』は織田信長の『信』である。
魔王とまで綽名されるあの信長をして「養子に欲しい」と言わしめる程の気概の持ち主であった。
父親たる元親も嫡男の才走ったものを良く見抜いており、それは溺愛していたものだ。

その子が首級を取られ、木偶の如き肉塊となって手元に帰ってきた時の元親の取り乱しようといったらなかった。
一国の主として荒くれ共を纏め上げる程の男が、その場で泣き崩れたのである。

あれからずっとこの有様だ。
愛だの情だのを交わし合った相手がすぐ傍らに立とうとも、ちらりとも此方を見ようとしない。
声を掛けた所で気付いてはいるようで、小さく肩を揺すったきり動かない。

元就は男の傍らに腰を下ろした。


「忘れろ。戦乱の世にはよくある事だ」


四国と中国が同盟を結んでどのくらいになるか。
兎に角この男の顔は見慣れたつもりで居たが、この様に腑抜けた表情を間近に見るのは初めてだった。

胡座の上で頬杖をつき、掌の上にある顔は半ば覆われてやはり見難い。
が、はっきりと何かが足りない。


「親和や親忠、盛親も居ろう。…何も嫡男だけが全てではない」


元就にはそれがわかる気がしていた。
かつて自身も踏んできた轍を、今度はこの男が踏んでいるのである。


「…我もその昔、一の姫を亡くした」


聞いているのかいないのか、元親はゆっくりと呼吸と瞬きだけを繰り返す。
反応がないのを良い事に、元就は平素絶対に口にしない過去を語った。


「元より人質に出した子だ。殺されても致し方あるまい。…だがそれでも、」


それでも。
その先に続く言葉を元就は知らなかった。
ただ心の奥底に蟠る感覚としてのみ知覚している、名前も知らない感情。


「…まして嫡男ともあれば、当然か」


これは独り言だった。
心を無くしたかの様に呆ける男はまだ動かない。


「…だから貴様は弱いと言うのだ」


静かに吹き付ける弱い海風に紛れて手を伸ばす。
いつもなら自分から触れただけで面白いくらいの反応を見せるというのに、紫の隻眼は小揺るぎもしなかった。

そのまま腕を回し、自分よりも大きい体を抱き込める。
銀糸の髪に顔を埋めると風と同じ匂いがした。




「貴様がまことの鬼ならばよかったものを」




触れた端から伝わる、人が人たる温もりと脈。
腕の中に収めた男の顔はそれでも変わらなかった。




静かに打ち付ける波の音がお互の呼吸を掻き消した。










終.


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