滓
□彼の世界。
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彼の世界 side Y
扉を叩く音が二回。
「どうぞ、お入り下さい」
私はできるだけ優しい声で言う。
週に二回、この声を作らなければならない。
扉が開き、彼が入ってきた。
銀に染められた髪は、ちらほらと地毛が覗いている。
しかし、不思議なことに不潔な感じはしない。
特有の面立ちをしているからだろうか。
彼のことは、とても綺麗だと思う。
「いらっしゃい。調子はどうですか?」
私は柔らかく笑みを形作り、彼を椅子へと促す。
彼は少し頭を下げ、私の正面に座った。
「調子はええよ。でも、」
「でも?」
「柳生しゃんに会えんで、寂しかった」
「仁王君、先生と呼びなさいと何度言えば分かって下さるのですか?」
私は苦笑し、窘める。彼は不服そうに頬を膨らました。
「調子が良いようでしたら、このお薬続けていきましょうね」
「センセ、俺もう薬飲むのヤダ」
カルテに走らせていたペンを止める。
私は彼を真直ぐに見つめ、彼も私を正面から見据える。
「もう少し、続けてみましょう。ね、」
「イヤじゃ。こんなところだって、先生がいなければ、よう来んよ」
彼は私から目を逸らし首を垂れ、泣きそうな声で呟いた。
私は彼の髪にそっと触れる。びくりと彼が震えた。
ゆっくりと髪を撫ぜる。脱色により痛んだ髪は、思ったよりも指触りが悪かった。
「仁王君、今薬を止めてしまえば、もっと苦しくなるんですよ。仁王君は賢いから、分かるでしょう?」
彼は顔を上げた。瞳には、涙がうっすらと滲んでいる。
ガタン。
彼は椅子から立ち上がり、私の膝に縋ってきた。
腰を抱きしめられ、私はくすぐったさに身を捩った。
「仁王君、」
名前を呼んでも、彼は私の体に頭をすり寄せるだけだった。
「大丈夫ですよ、仁王君。きっと良くなります」
赤子をあやす様に、背中を叩く。嗚咽に気づかないふりをして。
それでも、私の服は少しずつ、彼によって濡らされていった。
右手首に手を這わせ、私は目を閉じた。
「では、また三日後に。お大事にして下さい」
扉が閉まる。
彼の姿はあちらへと消え、もう私の手には届かない。
彼の世界 side N
「先生、彼の様子はどうでしたか?」
「ああ、大分落ち着いてきている」
「でも、やはり現実を認識していないようですね」
俺の横を歩く看護士は、溜息を吐きながらカルテに目を走らせる。
廊下に響く彼女の足音が不快だった。
「現実…か」
俺は天井を見上げる。
この施設独特の薬品臭さと、何処までも続く白。
一日中こんな所にいたら、狂ってしまいそうだ。
朗らかに笑う彼が、異常などとは到底思えない。
しかし、彼の瞳に映るのは自分にとって都合の良い世界だけ。
どこまでも自分に優しい世界で生きる彼。
彼の世界に居る俺は、精神を病んだ彼の患者となっている。
即ち、彼の世界では彼は医師なのだ。
彼の世界では、俺達の立場は逆転する。
彼は、現実では叶わなかった夢を閉鎖された空想の中で成就させた。
憐れに思うと同時に、その一途さをとても愛しく感じる。
三日後、また彼を診察する。
恐らく、何も進展はしないだろうけれども。
俺は廊下を歩く。何処までも何処までも続く白の中を。
「はい、それじゃあまた三日後ね。イイ子にしているのよ」
ガシャン。
end
20070221 ao。
同日pm 加筆修正