Novels 5
□迷宮入りの恋
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ホームズが愛を伝えようと思ったその日、ベイカー街には雨が降り注いでいた。
といっても、朝からずっと降っていたわけではない。
さっき、ホームズがふと本から顔を上げたときにはもう窓を破らんばかりの雨粒が落ちてきていた。
雨の降り方を見るに、にわか雨だろう。数刻もすれば止むに違いない。
しかし、ホームズには気掛かりなことがあった。今日訪ねてくることになっている女性のことだ。
胸ポケットから懐中時計を出して時間を確認すると、もうそろそろ到着しても良い時間だった。
(降られてしまいましたかね……)
姿の見えない想い人を案じたそのとき、ホームズの部屋の扉が控えめにノックされた。
今日、ハドソン婦人は所用で外出している。(傘は持っていっただろうか)
彼女が到着したようだ。
立ち上がって扉を開けると、ホームズは思わず絶句した。
そこに立っていたのは、ずぶ濡れになった貴女だった。
「すみません、すぐそこで雨に降られてしまって……」
小刻みに震えながら、申し訳なさそうにホームズを見上げる様は、どこか扇情的に感ぜられた。
何と声をかけるべきか。彼はおおいに迷った。
「……水に濡れたあなたも美しいですね」
考えあぐねた結果、口をついて出た言葉は、おおよそ雨で身体を冷やした女性にかけるものではなかった。
明後日の方向へ向かった話題に、貴女も目を瞬かせてキョトンとしている。
「さ、さあ……そのままでは風邪をひいてしまいます。バスルームを使ってください」
咳払いと話題転換で誤魔化すと、ホームズは貴女の背を押してバスルームへ向かわせた。
本当にバスルームを使用しなければならないのは自分かもしれない。(尤も、自分に必要なのはお湯ではなく水だが)
バスルームの扉を閉めると同時に、ホームズはそんなことを思った。
「あ、あの、ありがとうございました」
バスルームから出てきた貴女は、依然として申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
が、それよりもホームズを動揺させたのは、彼女の格好だった。
バケツで水をかけられたようにずぶ濡れになった服を着られるわけもなく、彼女はホームズのシャツに身を包んでいる。
体格差のせいで生まれた隙間から白い肌が覗くのを目の当たりにすると、普段の冷静さは遥か彼方へ消えていった。
「……その格好も似合いますね」
冷静さが逃亡した頭では最早まともな台詞も浮かんでこない。
下心があるとしか思えない言葉は明々後日の方向に向かい、重い沈黙を生んだ。
真っ赤になって俯く貴女の姿を見ながら、ホームズは今日中に愛を伝えるのを諦めた。
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