short novel.
□◇一抹乃夢◇
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秋の月が夜闇を照らし出す時刻である。
藍楸瑛は後宮の渡り廊下を歩いていた。
今夜も、呆気なく陥落した女官の室で逢瀬を重ねるために。
まるで高まらない胸を抱えながら、楸瑛はいつものように足を運んだ。
途中、後宮一の美しさを誇る庭院に差し掛かる。
一瞬立ち止まり、月明かりに彩られた季節の花々をしばし眺めた後、肌をチクリと刺す冷気に楸瑛は思わず眦を細めた。
(……そういえば)
あの方に出逢ったのも、丁度この場所であった。
あの時も、簡単に堕ちた女官に興醒めし、逢瀬の約束を放棄して……
自分は、泣いていた。
数多の女と肌を重ねても、幾千もの甘い言葉を囁いても、心は何時も空っぽのままだったから。
(……だから)
だから、自分はあの舞に魅せられたのだろう。
永遠に叶うことのない、悲恋の舞。
それを舞っていた女性は、自分ではない、他の誰かを想っていた。
『それでいいの。あの人が幸せでいて下されば……』
――あの人の幸せを願える事が、私にとって最も幸せなことだから。
そう、微笑んだ女人。
その微笑みを、楸瑛は自分に向けて欲しいと初めて願った。
それが、楸瑛にとって初めての。
(恋、か……)
楸瑛は自嘲気味に笑った。胸元から小振りの白檀の扇を取り出し、指先でそっと撫でる。
この扇の持ち主は、進む道を選んだ。それは、彼女の想う人が歩む道とは真逆の方向。
彼女は自ら、想う事を辞めた。
『私には、幸せになる資格なんてありません』
――だから、後戻りができるうちに。私が、私でいるうちに。
『……さようなら』
最後まで愛する人への想いを心に秘めたまま、彼女は自らの運命に従った。
そして、楸瑛は彼女を引き留める事ができなかった。
(あれから……)
あれから、自分はちっとも変わっていない。
最早叶うことのない恋にいつまでも微かな期待を抱いたまま、楸瑛は女を抱く。
渇いた心が癒やされる事は無い。
(私は、一体何をしているのだろう)
楸瑛の頬を、一筋の月明かりが伝った。
それはまるで涙のようで。