short novel.
□◇一抹乃夢◇
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「今宵は、お忍びにならないのですか?」
背後から優しく呼び掛けられ、楸瑛はふと我に返った。
気配は、感じなかった。
剣の柄に手を掛けて振り向くと、そこには見慣れぬ女が佇んでいた。目を見張るほど見事な美女である。
結わずに背に垂れた長い漆黒の髪は月に照らされ、鴉の濡れ羽のごとく輝き、女の陶器のような白く滑らかな柔肌に掛っていた。
楸瑛を見上げる双眸は煙るような睫毛に縁取られ、その奥には蒼とも緑とも言い切れない不思議な色合いを帯びた瞳が優しく煌めいていた。
薄く形の良い桜色の唇には、柔らかい微笑を称えている。
傍目にも華奢な身に纏った絹の衣は白金の糸で凝った刺繍が施されており、女の美貌を見事に引き立てていた。
女の表情はどこか浮き世離れしていて、楸瑛よりも年下にも年上にも見える。
入内したばかりの女官であろうか。楸瑛が知らない女人であった。
「…あなたは……?」
警戒心を解き、何気なく剣から手を外すと、女は問いに答えず、クスリ、と小さく笑った。
「今夜は、逢瀬をなされないのですか?」
「たった今、その気が失せましたよ。貴方ほど美しい女性を目前にしてしまっては、ね」
「相も変わらず、お言葉がお上手なこと」
(……相も変わらず……?)
楸瑛は首を傾げた。これほどの美女と以前に会った事があるのなら、自分の記憶に無い訳がない。
しかし、楸瑛はこの女にとんと見覚えがなかった。一体何者だ。
「その、失礼ですが……以前、どこかでお会いしましたでしょうか?」
極めて遠慮がちに楸瑛が聞くと、女人は答えず、一層笑みを深めた。
「良いのですか?」
「……は?」
「貴方をお待ちしている女性がいるのでは?」
「………」
楸瑛は瞼を伏せた。どうやらこの美女は自分が夜な夜な女官の元に通っている事を知っているようである。
空っぽの心は満たされないまま、情欲を満たす為だけの虚しい逢瀬。