寄り添い花シリーズ

□寄り添い花
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桐島『追憶の果て』

☆☆☆☆☆

 巨大な温室を囲うガラスの壁を忙しなく叩く雨音が響く。

 秋の嵐は雨だけでなく風も強くて、強風にガタガタと窓や扉の揺れる音が雨音に混ざってさらにうるさい。

 そんな賑やかな温室を歩く桐島の眉間にはしわが寄っていた。


 奏太の誕生日まで後5日なのに、プレゼントを決めかねていた桐島は、これまでに差し上げた蘭を見ようと、ここへやってきたのだ。

 奏太に蘭はいらない、他に欲しいものがあると言われ、戸惑いを隠せなかった。

 自分で選ぶと取り繕ってあの場を立ち去ってしまった。

 だが蘭以外に彼の欲しいものなど見当が付かない。

 執事の自分には無理だと言っていたのだから、値のはる物かもしれない。


 悪天候の騒音に更にカツカツと靴音を混ぜていた彼だが、目的の場所にたどり着き、その歩みをピタリと止めた。


 目の前には、香り立つ蘭の花壇がある。


 大輪の白い花をいくつも付ける胡蝶蘭。

 地面から弧を描くように生える沢山の細い葉の真ん中に15センチ近くの赤い花を付けるカトレア。

 茎にまとわりつくように10個以上も桃色の花を付けるシンビジウム。

 吊られた大きな籐のバスケットから葡萄のように鈴なりに咲く小さな白い花をしだれさせているデンドロビウム。

 まっすぐ2メートルほども伸びた茎の先端に大輪の真っ青な花を付けているバンダ・セルリア。

 きらびやかに咲き誇る数々の蘭の花。


 そして、一番手前にあるのはオンシジウムの小さな花たち。

 黄色をメインに、白、紫も混ざった踊るように咲く小花は、桐島がこの屋敷にやってきたときから、ここにある。

「奏太さま……あなたの、大好きな花」

 出会ったときのまま、美しく咲く花の可憐さが、あの頃とかわらない美しい奏太と重なり、桐島は微笑んだ。



*****


 8年前の11月1日、桐島は有森家に召された。


 巨大な自動開閉する唐草の装飾がされた金属格子の門、そこから車でゴシック調の絢爛豪華な屋敷の玄関までの所要時間は3分。

 これまでに4件の富豪の執事をしたが、こんなに立派な家は初めてだった。

 金というものは、あるところには腐臭がするほどにたまるのだと、そんなくだらないことを感じた。


 なにより、6歳という幼い息子に専属の執事をつけるなど、あり得ない事だった。

 執事とは通常屋敷に一人。子供のしつけというなら、家庭教師でも雇えばいいのにと思いながらもこの仕事を受けたのはもちろん金だった。

 示された金額は過去4件の報酬の倍。

 なぜこの値段なのか、と尋ねた桐島への答えは『奏太さまは母親を失いました。孤独な幼子に誠心誠意尽くしてくださる方を求めています』というものだった。


 だが、15で消えた母親など失ってもどうでもよかった自分にとって、奏太の心境が分かるわけもなかった。

 母に関心などなかった。

 きっと桐島は愛情というものがどこからくるのかすら、わからないままだったのだ。


 学校で勉強に精を出したのも、何も楽しみがなかったからだ。

 勉学にいそしんでいれば、いろんな事が忘れられた。

 だが、それだけだった。

 情熱を掛けるに値する学問に出会うこともなく彼は大学を卒業。

 興味がわかない社会に一人、投げ出された。

 卒業後は大学教授の斡旋した会社に就職した。

 頭脳明晰の彼はそこでもそつなく仕事をこなしたが『つまらない』と言う感情しか沸かなかった。

 そんな矢先、たまたまとある大富豪のパーティに呼ばれた。

 それは大学で世話になっていた教授が懇意にしている富豪、つまり教授の研究のスポンサーだった。


 彼はそこで執事というものを初めて見た。


 確実に生活習慣病になっているだろう太りきった中年の大富豪の男を甲斐甲斐しく世話する黒いスーツの男。


 小間使いとは、まさにこのことだ。

 あんな人生はどれだけつまらないことだろう。

 そう思った。



 だがパーティの間中、桐島は執事から目が離せなかった。


 そして胸に沸くのは、これまでの人生のこと。


 今まで何もおもしろいことなどなかった

 だがおもしろくない、と思ってしまうのは、どこかの誰かと比べるからだ

 有りもしない『目標』や『夢』を求めて

 『自分の未来』を考えて意味のない期待するからだ


 会社とて、自分の立身出世を考えて人と接するのがふつう

 ……くだらないことに心を裂いて、何が面白いのか

 自分の人生に価値なんて必要ない

 もうそんなこと考えることも疲れた
 


 だが、執事なら、決して上に上がる事はないのだ

 いつでも上に立つ主を敬い続ければいいだけ


 この人生を誰かに捧げてしまえば、自分のことを考えずにすむ


 きっと、

 『つまらない』と思うことから解放される


 何のために生きているのかなんて、考えなくても
 
 いや、何も考えなくてもいい


 無理矢理『目標』や『夢』を夢見ようとする世界から


 『自由』になれる


 

 目の前で大富豪の為にセコセコと働く執事。

 それと自分を重ねたその時、桐島は『執事になろう』と決意をする。

 そして、そのあと直ぐに執事学校へと入学したのだ。
 

 有森家に到着した桐島は、現有森家執事である唐沢に連れられて敷地の案内を受けた。

 唐沢は50歳を過ぎ、グレイッシュな髪と深く刻まれた皺達の哀愁が漂う礼儀正しい男。

 そして唐沢の案内で最後に訪れたのがこの温室だった。

 午後2時に屋敷に着いたのに、この屋敷を仕切る彼の丁寧かつ事細かな説明のため、奏太がいるというここに着いたのは3時半も過ぎていた。


 こんなに幼い主は初めて仕える。

 だが、これまでと同じだろう。


 彼のことだけを考えて過ごせばそれでいいのだ。


 つまらない人生から逃れるだけ。

 所詮子供、一緒に遊んでやればいい。

 彼の欲しがるものを与えればいい。


 そんな楽観的な考えで彼は温室に入った。

『奥の蘭の前に奏太さまがいらっしゃるから挨拶を』と言われ進んだ温室の突き当たり、そこに、彼は確かにいた。


 南に面した温室の奥、右からガラス越しに温室に射し込む西日が、奏太の艶のある柔らかな栗色の髪に天使の輪を作らせていた。

 襟元にレースのあしらわれた白いドレスシャツに温かみあるジャガード素材で出来たグレーのチェックのハーフパンツ。

 黒のロングソックスに磨き抜かれた黒い革靴。


 彼の後ろ姿は温室内に咲き乱れる南国の花々よりも、美しく輝いていた様に感じた。


 そっと、彼に歩み寄り、その横顔を見たとき、心臓に、いや、全身に驚くほどの衝撃が走ったことを覚えている。


 ふわりと膨らんだ頬は、幼さの象徴で、しかし綺麗に通った鼻すじ。

 柔らかく弧を描く眉毛と黒目がちの大きな瞳が、目の前の花をまっすぐに見つめている。


 そして自分が傍まで来たことすら気付かない彼の横顔……


 奏太は、6歳には見えなかった。



 すべてを諦めたような無表情。


 だがどこかに、悲しみと聡明さとが折り混ざった、あまりにも大人びた横顔だった。



『初めまして、奏太さま。わたくしは桐島と申します』


 そう声をかけるまで、どのくらい見つめていたのか。


 もしかしたら、たった一秒かもしれないし、それとも10分かもしれない。


 その衝撃は時間の感覚を失うほどだった。



 桐島の声かけでちらりと新しい執事を一瞥した奏太は、すぐに目を花に戻した。

 
 応答はなかった。


 桐島はすぐ彼の傍にひざまづく。

『どうぞ、桐島とお呼びくださいませ。今日からわたくしがあなたの執事をさせていただきます。宜しくお願いいたします』



 本当はもっときちんと自己紹介をするべきだったと思うのに、奏太の姿に心を奪われてしまった桐島はそれ以上、言葉が出なかったのだ。



 ひざまづいたまま動くことすら出来ない桐島に、唐沢は戻るように声をかけた。

 そして彼は桐島に別室で奏太について説明した。

『奥様が亡くなられてからは、奏太さまはこれまで以上に無口になられた。今までももちろん奥様以外と楽しく話すお姿など見られなかったのですが』

 あの方が生まれたときからこの家に仕えている自分にもなつかないと、寂しそうな顔をして。

『あの方をよろしくお願いします。屋敷の仕事に関してはすべて私が行いますので、あなたは奏太さまのおそばにいてあげて下さい』
 
 桐島のような新米の執事に頭を下げる唐沢に『さぞお辛かったことでしょう』と慰める事も出来なかった。



 桐島の頭には奏太の姿しか浮かばなかったのだ。



 あの奏太の姿は、まるで過去の自分を見ているかのようだった。

 まだ6歳なのに、生きることすら興味がないような、あんな顔を見せるなんて……


 彼の奥底にある感情は、どんな形なのだろうか……


 笑わせてみたい

 泣かせてみたい

 怒らせてみたい


 そう思った自分が信じられなかった。



 こんなに誰かに興味が沸くなんて…


 これまでの人生で冷め切った自分の感情を、奏太の横顔は一瞬で沸騰させたのだ。



 そして、奏太の執事として仕事をし始めた桐島。

 片時も奏太から離れず、毎日毎日彼の世話をし、彼に微笑みかけた。

 彼が少しでも興味がありそうなことがあれば何でも行い、家庭教師も桐島が兼任した。

 体が弱く学校へ行けない奏太に最初はきちんと家庭教師がつけられていた。

 だが、無表情で無感動な奏太に根を上げて、何回も家庭教師が辞めてしまっていたから、なら一通り勉強はできていた自分が家庭教師もやると、桐島から総帥に掛け合ったのだ。  


 かたくなまでに無表情だった奏太が少しずつ桐島に心を開き、少しでも言葉を交わし、微笑み返すようになるには1年以上かかった。


 桐島は、奏太が笑い、泣き、怒る度に、自身の喜怒哀楽と言う感情を取り戻していく様な気がした。

 奏太と共感する感情の波が、とても新鮮で心地よくて、愛おしくて。


 諦めの境地で選んだ職だったのに、こんなに、毎日が幸せだなんて……


 ……この方の傍に、ずっといたい



 桐島は執事としての喜びを初めて感じた。
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