短編集(Rあり)

□道化(9p)
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 道化

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 この町はとても賑やかだ。明治へと年号が変わり始まった文明開化で、金持ちの貴族はこぞって西洋の服を着ている。そうやって道行く人々の服装が町を彩り、そしてそれらに負けじと建物すらも異国情緒を醸し出す擬洋風建築が立ち並んでいった。

 壁の白い漆喰が真夏の太陽光を受け光り輝き、そしてその屋根の黒や緑を呈した瓦のコントラストが、町の大通りを歩く正幸(まさゆき)の視界を埋めた。晴れた空の下ではそれがあまりにも眩しい。扇子を片手に、黒地に薄い灰色で細い菱形を描いた浴衣の裾をパタパタと揺らしながら、正幸は鳶色の瞳を細めた。少し垂れ目で柔らかな雰囲気を醸し出すきれいな瞳だったがそのせいで、いくばくか鋭くなってしまった。正幸の直毛の栗色の髪も、夏の日差しできらめく。彼の短く刈りあげた髪型は、散切り頭の流行りとは関係なく、暑さを逃がすだけに選んだものだったが、正幸のスッキリとした醤油顔顔立ちによく似合っていた。
 彼は細めた視線を、世間では美しいと評判の西洋建築からそらし、すぐ近くにある昔ながらの町屋を見た。木目が優しく浮かぶ壁に頬がゆるむ。ああ、日本に戻ってきたんだな、と心はどこかほっとした。

 正幸は菓子職人だ。江戸時代から続く菓子屋【清水】の若旦那である。正幸は菓子が好きだった。口に入れるだけで全ての人を幸せにできる甘くて優しい砂糖は、どんな世代の人間にも喜ばれる希有な食べ物だと思っていた。
 そんな甘い菓子をもっと知りたくて、彼はついこの間まで日本を離れていたのだ。修行におもむいた先の、西洋の菓子は和菓子とはまるで違うモノだった。正幸はそれに魅了され、半年の予定が気付けばもう二年も国に戻っていなかった。夢中になると周りのことが何も見えなくなる性格が悪影響したのだ。だがついに便りがきた。もう二四歳だ。いい加減に家を継げと。慌てて帰国をした彼を待っていたのは、怒濤のお家騒動で、いつの間にやら嫁まで決められていた。どこの誰かは知らないが由緒正しい女性らしい。だが、正幸にはそんなものなど必要なかった。帰ったら一番にしたいことがあったのに、帰国してもう十日もたつのに、それも叶っていない。
 ついにお家騒動に嫌気がさした彼は、
「俺は自由にやらせてもらうよ、でなけりゃ、家は継がねぇから」
と家を飛び出して、今に至る。

 そしてひとり歩き続けた彼は、町外れの小さな屋敷まで来た。そこは思い出の寺子屋だった。正幸が渡欧(とおう)に際して必要な、英語や独逸語(ドイツ語)などの外国語を学んだ場所だ。もちろん菓子しか興味のない人生を生きてきた正幸は、落ちこぼれの部類だったが。

 ああ、元気だろうか、と彼は胸にひとりの人間を思い浮かべた。その人物はここでともに学んだ若者で名は山上和巳(やまがみかずみ)と言う。正幸より六つ下で、あの時は十六歳だった彼。どこかの貴族の子息らしいのだが、偉ぶることもなく、物腰がとても柔らかだった。少しうねりのある黒い髪の毛が物腰によく似合う。そして日に焼けづらいらしく色白な肌をした和巳。彼はその白さに負けず輝く大きな黒い瞳を持っていた。そして常に姿勢を正し、瞳を知識欲でいっぱいにして講義を受けていた。その姿はとても気高く凛としていて、芯の強さが感じられて、正幸は『美しい』という言葉は彼のためにあるのだと勝手に思っていた。
 そんな彼の勉学の吸収力はこの寺子屋イチだった。正幸は講義の後、いつも彼を捕まえて分からないところを質問責めにした。はっきり言って師匠よりも和巳の言葉の方が何倍も分かりやすいと正幸は思った。

『もう、正幸さん、僕じゃなくて、師匠に聞いた方がいいんだって、何回も言ってるのに』
 彼はそう言いながらも、一度も嫌がることなく丁寧に教えてくれた。その声はとても優しく甘く、まるで菓子のようだと正幸は思った。
『違うよ正幸さん、見知らぬ人に道を聞くときは、独逸語ではBitte sagen Sie mir den Weg. Sie(ズィ)はdu(ドゥ)と同じであなたって言う意味だけど、親しい人にだけduを使うの。いきなりduを使うと失礼だから気をつけて』 
『じゃあ和巳、お前さんに聞くときはduでいいんだな』
『バカ、僕は独逸人じゃないんだから、日本語で話してくださいな』
  
 ちょと困ったように照れたように笑う和巳のは、本当に綺麗だった。彼は頭脳明晰なのに、時間があれば竹刀を振り、剣術にも勤しむ。文武両道を目指し、常に自分を律する姿に、正幸は惚れ惚れした。
 だが、たまに饅頭などをつくって持っていくと、小動物のように口いっぱいにそれをほおばり『おいしい、おいしい』と食べてくれた。その姿は、凛としたいつもの和巳からは想像ができないほど可愛かった。向こうで西洋菓子を学んで戻ってきたら、絶対和巳に食べさせようと、正幸は密かに決意していたくらいだ。
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