短編集(Rあり)

□道化(9p)
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 そして正幸が船で旅立つとき、彼はわざわざ港まで見送りに来てくれた。
 大きな瞳を涙で潤ませて『帰ってきたら、僕に異国のことを沢山教えてくださいね』と優しく笑った。そんなときにも、凛という言葉が似合う顔はあまりにも綺麗で、正幸は瞬きが出来なかった。
 別れ際、彼が握手を求めてその白い腕を差し出した時、自分は彼を腕ごと引き寄せ、抱きしめてしまった。頬に彼の髪の毛がかすめた。首に彼の吐息を感じ、呼吸が浅くなった。
『あぁ、必ず。お前さんに教えてもらった分、次は俺が教えてやるよ』
 何とか返事をしたら、腕の中の彼は強く頷いてくれた。
『待っていますから』

 そのとき正幸は、気付かず積もりに積もっていた和巳への思いを初めて自覚したのだ。そしてきっと和巳も少なからず自分を慕ってくれていると、正幸は感じていた。

 ひとつも色褪せることなく二年前の記憶が戻って、正幸は微笑んだ。
 もちろん、向こうでもたびたび彼を思いだした。生クリイムを泡立てながら、彼の白い肌を。ちよこれいとの元となる煎ったカカオをすり潰しながら、彼の黒い瞳を。手紙を送ろうかと思ったが、自分と彼との接点は寺子屋だけだった。彼の住まいすら知らなかったのだ。聞いておけば良かったといたく後悔した。そうして過ごしたこの二年、片時も忘れることは無かった、あの姿とほほえみを。

 その約束を守りたかった。帰国したら一番に彼に会って、異国の事を話したかったのだ。
 和巳に会いたい、今すぐ会いたい、と正幸は思った。
 寺子屋の扉をたたき、そっと開ける。そして中に声をかけた。誰かいるだろうか。
 しばらくすると、見知った師匠が顔を出した。白髪が交じった中年の師匠は「お久しぶりです、清水の若旦那、無事の帰国、めでたいことですな」と頭を下げた。
 そうして、簡単な世間話のあと、和巳の行方を聞いた。すると師匠は少し渋りながら言ったのだ。
「山上家は一年ほど前に、その、没落しましてね、一家は離散。彼は多分、茶屋で働いていると思いますよ。折角の才能が……もったいない限りです」
 正幸は動揺で手にしていた扇子を地面に落としたのも気づかなかった。茶屋と聞いて思いつくのは『陰間茶屋』しかなかった。没落したということは多額の借金も抱えているはず。それを返すために陰間(男娼)として生きているのか、あの和巳は。
 この町の陰間茶屋は一つしかない。金持ちの商屋、武士、そして僧侶など要職につく人間を相手にする高級茶屋だ。
「ありがとうございましたっ」
 師匠の挨拶もそこそこに駆け足で町に戻った。まさかこんな事になっているなんて思いも寄らなかった。和巳は、無事なのか。彼のほほえみは曇っていないのか。
 それで胸がいっぱいになった。
 どうか、どうか、そのままの和巳でいて。


   *

 初めて足を踏み入れた陰間茶屋はとても閑静な佇まいだった。西洋かぶれの建物ではなく昔ながらの商屋そのもの。手入れも行き届いているのだろう。黒い木の板を張った床は、歩く姿が鏡のように反射するほど磨かれていた。 
 そうして、店内をぼうと眺めていた正幸に、番頭らしい人間が声を掛けた。
「これは、清水の若旦那。お初のお越し、ありがとうございます」
 名乗らなくても正幸のことを知っているらしい。こういうところが高級茶屋の気遣いなのだろう。
「ご指名、ございませんか?」と聞かれ、和巳に会いたい一心でここに来た自分はどうすればいいのかと、戸惑った。すると「陰間のお名前を見られますか?」と名簿帳を見せられた。
 だが、そこに【和巳】という者はなかった。ああ、当然か。本当の名など使うわけもない。どうすればいいのか、と思ったときその中に【やわら】という源氏名を見つけた。和巳の和はやわらぐとも読める。もしかしてこれか。
 正幸は、おそるおそるその名を指さした。
「やわらはうちで一番人気です。お目が高いっ、さすが若旦那ですっ。ですがお値段ははりますよ?」
 値段などどうでも良かった。和巳に会えるのなら。だがよく考えると、屋敷を着の身着のまま飛び出した正幸は銭を余りもってこなかったと気付く。懐をまさぐり、何とか一切れ(一時間程度)の値段を払えるくらいに金を集めた。

「こちらでございます。やわらは大変麗しく、器量も良い子でございます。予約が空いていて本当に幸運でございますね、若旦那。ではどうぞごゆるりと」
 そして茶屋の最奥まで案内された正幸は、美しい松の絵柄が施された襖の前にひとり残された。
 この向こうに和巳がいるのか、と思うだけで手に汗が滲む。やわらが和巳だと勝手に思いこんでいるだけなのに、こんなにも胸が高鳴った。
 なんと声をかけよう。
 笑ってくれるだろうか、会いたかったと言えば、きっと笑ってくれる。なにせ二年ぶりだ。
 襖の奥、輝く笑顔の和巳を想像し、正幸はそれを開けた。
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