長編
□た
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「で、ここがわかんねェんだけど」
「あー、ここは―――」
その日の夜、銀八の家。
いつもは一人のはずの部屋なのだけれど、今日はソファの上、テーブルを前に二人で座っていた。
一体何をするのだろうかと身構えていた銀八だったけれど、そこは優等生といおうか、家に来た彼の手にあったのは勉強道具だった。
土方の成績が悪いはずは無いのだけれど、やはり苦手というものはあるらしい。
ここがどうしても分からないのだと持ってきたのは、銀八の得意分野だった。
「だからこうすれば良いんだよ」
「あ、成程」
飲み込みの早い土方に教えるのは、一応とは言え教師をやっている銀八が面白くないはずが無い。
試しにコレやってみ、と差し出した大学の入試問題も、たった数問迷うだけでほとんどスラスラと解いている。
「…やっぱお前頭良いのな」
「勉強してるからな」
謙遜することも無くそう言う土方の表情は、ほんの少し嬉しそうで、朝のあの表情が嘘のようだった。
一通り解き終わったテキストを受け取って、銀八が丸を付け始める。
やはり、ほとんどが正解だった。
この成績ならかなり良い大学に入れるだろうと思って、銀八は尋ねる。
「お前、将来なりたいもんとかあんの?」
「……あー…」
土方の表情が一瞬、切なげに歪んだ気がした。
けれどそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもう元の表情に戻っていたから。銀八はそれが気のせいだったのだと、そう思うことにした。
土方は数秒の間視線を彷徨わせて、そうして小さく、口を開く。
「……し」
「へ?」
「教師っ!」
そう言った土方の頬は少し赤くなっていて、銀八は思わずくすりと笑った。
けれど土方はそれが馬鹿にされたように思えたのか、やっぱ言わなきゃよかった、と拗ねたように呟く。
それがあまりに子供らしくて、いつもの土方とは全然違うように思えて。
銀八は更にくつくつと笑いを深めた。
「いやいや、いいと思うぜ?教師」
「…んなこと思ってねーくせに」
「思ってるって」
銀八は一頻り笑い終えると、はぁと息を吐いて告げた。
「お前なら、なんだってできるよ」
ほろりと零れたこの言葉は、いつか誰かに言ったことがあるような気がした。
土方の薄い青色の眸が、驚愕に見開かれる。
「…銀、八」
「ん?」
土方は、苦しそうに眉根を寄せる。
壊れ物を扱うようにそっと、迷いながら言葉を選んでいるようだった。
そうして、彼は恐る恐るというように、震える息を吐きながら告げる。
「俺、さ…前にも、この家に来たんだけど…覚えてねェ、かな」
「…前にも?」
土方がこの家に来たのは、初めてのはずだ。
銀八の記憶違いかとも思ったけれど、そもそもこの家に人を上げたのは初めてである。
「そんな事あった?」
「…っ」
土方が、唇を噛む。
その眸は、絶望に揺れていた。
―――触れたい。
どくりと湧き上がった衝動は、銀八の胸にすとんと落ちる。
元からあったもののように、無いことがおかしかったように。
その肩を抱き寄せてしまいたい、その体を抱きしめてしまいたい、と。
けれどその衝動は、理性で押さえつけてしまえるほどの小さな想いだったから。
「…いや、勘違いかも。忘れてくれ」
「? ああ…」
土方がふいと視線を逸らしたときには、もうその想いは消えていた。
そうして、視線を合わせないままに土方は立ち上がる。
「…コーヒー、貰うな」
「あ、ああ」
ぱたぱたと、早足で土方が台所へと向かう。
時計は、あと数分で十時になる所を指していた。
台所からは、こぽこぽと液体が注がれる音が響く。
静かな空間で、銀八はひそりと今日の事を思い返していた。
昨日とは違う、土方との関係。
彼の表情を思い出すと、心臓がきしりと軋むような気がした。
(…なんだ、コレ)
彼の切なげに歪んだ表情が、絶望に染まった表情が、そして何より、嬉しそうな微笑が。
思い出すたびに、名前の付けられないような感情が銀八の胸を埋めてゆく。
きしりきしりと、心が軋む。
……違う?
痛んでいるのは、心ではなくて、
「なぁ、銀八」
声が聞こえたのは、すぐ後ろだった。
泣いているように震える声は、絶望に染まっている。
「次は、覚えてて」
―――とん。
感じたのは、小さな衝撃。
胸が焼けるように、熱い。
ソファの後ろから回された腕、その手に光るのは、赤く濡れた銀色。
状況が飲み込めない。
一体自分は、土方は、何をやっている?
「きっと次で、終わるから」
薄れゆく意識の向こう、微かに頬に触れたのは何だったのか。
彼に触れようと持ち上げた腕は、何も触ることなく落ちた。
タイムリミット。
終わりを始める為の終わりであるならば、
僕は全てを終わらせよう。
例えその対価が、君の命だったとしても。
to be continued...